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05/10/29 時代祭の真実

05/10/29 時代祭の真実

10月22日は時代祭であった。

同じ日に鞍馬の火祭も行われ、両方とも京都の者にとってはおなじみのお祭りだ。

私は下京に住んでいるせいか、京都三大祭と言われるもののうち、祇園祭ならば親近感があり、近所だから思い入れもあり、見に行こうなどと思うのだが(と思いつつ、沢山の人だからと毎年尻ごみするのが通例)、そのほかの葵祭、時代祭には殆ど思い入れがないので、あまり見に行こうとは思わない。

葵祭(5月)は下鴨・上賀茂両神社のお祭だから、京都でも北の人々の祭だ。ワシラには遠すぎるので、殆ど馴染みがない。

京都市の北と南と言っても知れているのだが、井の中の蛙状態の京都の住人にとっては、このような認識であり、ありさまなのだ。

だから葵祭は北区、左京区に住む人々にとっては一大行事となるし、祭が近づくと、彼らは心がざわめく(らしい)。

 

では時代祭はどうか。

時代祭は、とても新しいお祭だ。京都では最も新しい祭なのではないか。

それは明治時代、建都1100年を記念した事業の一環として始められたものであり、京都人にとってはきわめて歴史の浅い、出来たばかりのお祭りだ。

時代祭は平安神宮の祭という形になっている。
平安神宮も、建都1100年の際に作られた神社であって、その時に同時に時代祭を始めた。

この祭を取りしきるのは平安講社である。

これは、明治時代、時代祭が始まった時に作られ、市民のカンパで金が集められ、運営されたという(正確ではないかも…)。

時代祭に参加する人々は、たいていは花街の芸妓さんとか、どこかの社長だったりするのだが、基本的には、生まれがそういう、市民の出資によるものだったから、今でもその伝統を引きずっている部分がある。

つまり、時代列によって担当する講社が決まっており、それは、京都の「番組」(町組み)が基本になっている。

要するに、町内ごとに列を持ちまわっていて、何年かに1回、町に役が廻って来る。その年になると、町内から何人か、参加する人を出さなくてはならない。
大体、10年に1度くらい、それが廻って来るらしい。

だから、京都に住んでおれば、10年に1度くらい、時代祭に参加する権利が廻って来るわけだ。

でも、参加出来るのは、まあはっきり言えば金持ちだけである。

町内の町会長さんとか、老人会の会長さんとか(?)、そういう、町内の名士が馬に乗る役なんかをする。

参加することが決まれば、乗馬の練習などをする。
これは、全部自前だからお金が要る。とても要る。

お祭に参加するには、とてもお金が要るのだ。だからお金持ちでないと参加出来ないというわけだ。

 

お金が要るということでは、時代祭の衣裳には大変なお金がかかっているらしい。

時代考証をきっちりしてあり、京都の伝統産業に携わる、西陣織とか、友禅とか、それらの伝統職人や工芸品を作る細工職人たちが、細部までゆるがせにせず作りこんだものを使用しているという。

確かに、テレビの中継を見れば、牛車や、手に持つ葛やら、鎧兜、牛のお飾りとか、そんな細部までがきちんとしていることが見て取れる。

子供の頃は、時代祭なんて(どのお祭もそう思っていたが)ただだらだらと、人がだるそうに歩いているだけ、などと思っていたが、身に纏っているもの、使われているものは、とても高級な、高価な一級品ばかりなのだ。

 

時代祭は、明治時代に始まったものだから、その時、逆賊とされていた足利尊氏が疎まれ、室町時代は時代祭の列には含められなかった。

今でも始めから時代祭の列を眺めれば、室町時代だけがすぽんと抜けている。

これは、始まったのが明治だから、それに深く影響された。明治時代は天皇が神様であって、天皇に逆らった者は逆賊として徹底的に弾圧されたのだ。

だが、京都にとっては室町時代はもっとも京都らしい時代なのではないのだろうか。
というか、金閣寺や銀閣寺など、観光都市としての目玉商品が作られた時代である。

あんまり足利氏をないがしろにしていては、天罰が下るのではないか。
私はそう思う。

京都市も、平安講社もそう思っていたらしい。

時代祭が100回目だか、101回目だかの記念の今年に、足利列をぜひとも実現したい、という希望があったらしい。

何しろ、戦国時代から突然鎌倉時代に飛んでしまうのは、いくら何でも不自然だ。

でも100年間それでやって来たのだから、何とも不思議だ。

時代祭は明治の維新何とか隊から始まって、時代をさかのぼってゆくのだが、室町時代のあるべき列に楠正成がいるらしい。
で、次には鎌倉時代。

私は時代祭にあまり関心はなかったものの、長らく京都に住んでいると、自然にこうした知識がいやでも耳に入って来る。

時代祭は、日本の歴史ではなく、京都の歴史を見せる。

だから、奈良時代などはなくて、だから聖徳太子もいなければ、蘇我馬子もおらず、一番最後が卑弥呼だとか、縄文時代の原始人が列を作ってやって来る、などということはない。

それでも、こんなにだらだらと長い列が続き、江戸時代など、あっという間に終わってしまうのだ。
しかもこの長い列の中に室町列がない。

 

しかし、室町列をくわえたいという望みは、今年は叶わなかった。
何でも、費用が一億円かかるという。

資金調達のめどが立たないため今年は列を見送ったらしい。

昨年、室町列を復興させたいという話が出た時、栃木県の足利市が協力を申し出てくれたという。

足利市は足利氏の出身地なので、例年、室町時代にまつわるお祭を開催しているらしい。
ところが京都市は協力を断わった。

なぜかと言うと、京都で列を復興させるからには、本物志向の、時代考証のちゃんとしたものでなくてはならない、格を落せないから、ということだった。

つまり、足利市で行われているらしい足利氏の祭は、京都の時代祭よりも格が下、見劣りがする、という京都の言い分だったらしい。

 

何ともはや、イタケダカなことだとその時私は思ったのだが、確かに時代祭の列をじっくり観察したならば、それはそうかもしれない。

ほかの時代列の衣裳や、小物などはすべて京都の伝統産業に従事する人たちが作り上げた、一流のもの、最高級のものである。
一点一枚ないがしろにしてあるものはない。
装束は絹だったり、麻だったり。
足に履いているわらじも忠実に作られている。

そんな中で、室町列だけが、ほかの時代より明らかに見劣りのする装束では、統一が取れないのだ。
足利市のものは、そこまでの念入りな考証はされていないのだろう。

京都は確かにプライドが高く、それは時に嫌味であって、鼻持ちならないものだと思うが、そこには、それなりの実力というか、自信というか、あくまで本物を追求する、意識の高さに裏打ちされたものがあるということは間違いなかろう。

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