05/08/20 季節感
05/8/20 季節感
季節感。
それは日本人の拠り所であり、日本人を日本人たらしめている最後の砦のようなものだ。
日本人という種族が地球上にある限り、それはなくならないだろうと予測する。
なぜなら、日本人は昔も今も、あまりにも季節感によって行動を規定されているからだ。
グローバリゼーションが進み、どんな日本の田舎に行ってもコンビニがあり、高速道路があり、東京限定のニュースが瞬時に地方に届き、都市と地方の差がなくなり、日本の風景はつい2・30年前と激変してしまったが、それでも季節感はなくなることなく、今も日本人のアイデンティティを死守している。
季節感。
あの親日家W・C・フラナガン氏*が「おかげで、われわれガイジンは不思議の国に迷い込んでしまうのだ。」と嘆いたほど、それは「異常とも思えるほどの日本人特有の」性質なのだ。
*謎。「ちはやふる奥の細道」参照。
人は、どのような時に季節を感じるのだろうか。
まず、一般の日本人は、それほどに季節感というものを大事にしているだろうか?
秋になると秋刀魚を食べ、冬にはフグを突つき、春には初鰹を楽しむ。冬は鍋、夏は素麺。
冬にみかん、春にいちご、夏に桃、すいか。秋に栗、なし、柿。私のように食べ物音痴でもすぐにこのくらいが思い浮かぶ。
人は果物屋さんの店先で、魚屋さんの店先で季節を感じることだろう。大して広い山もないのに冬になるとスキーをしたがり、泳ぎもしないのに夏には海へ行きたがり、テレビでは冬にマラソン、駅伝、夏に水泳大会、納涼怪談噺と、相場は決まっている。
そして、植物がある。
春にはどうしても花見をし、秋が来ると紅葉狩りをせずにはいられない。これが日本人の性であり、業であると、どうして言えないか。
私の場合、何で季節感を感じるか。
それは、近所のスーパーのお菓子売り場である。
日本のお菓子。つまり和菓子。
これくらい、季節感の申し子と言うべき日本人の発明はないのではないかと思うくらい、和菓子は季節感の宝庫である。
春には桜餅、初夏には柏餅、ちまき、夏になるといっせいに水無月が出て、葛まんじゅう、わらびもち、鮎のお菓子が出て、秋になるとおはぎ、月見だんごが出る。
高級な京都の和菓子屋さんではない。スーパーの安もののお菓子の売り場が、そういう感じで季節ごとにいっせいにお菓子の売り出しを切りかえるのだ。
私は、スーパーの安もののお菓子を買いながら、いつも日本人のこの発明に驚嘆する。
つまり、お菓子に季節感を盛り込むという発明に。
私は夏という季節がとても苦手だけれども、お菓子だけは夏のものが大好きだ。
なぜなら、夏のお菓子には、ほんのいっときでも人に涼しさを、見た目の清涼感を与えて涼んでもらいたいという、昔のお菓子職人の粋な計らいが、痛いほどに感じられるからだ。
葛饅頭や水無月の、あの見た目の涼やかさはどうだろう。一体誰があのような優れたデザインを考えたのだろう。
安い葛まんじゅうをほおばりながら、私はいつもかつての日本のお菓子職人に感謝を捧げるのだ。
西洋のお菓子ではこうはいかない。
最近は西洋菓子をスイーツとかいうふざけた名前で呼ぶらしい。
そのスイーツには、このような日本人の粋、お菓子にさえ「見立て」をして楽しむ繊細な感受性がまったくない。
確かに、秋になればマロンを使ったり、春になればイチゴを使ったりしたスイーツが溢れるだろう。
しかしそんなものは全部果物頼みではないか。
見たてもなければ粋もない。
単にそのまんま。
素材をそのまんま使っただけ。
しかもごてごてと飾り立て、盛り付け、具をたくさん乗せさえすればいいと思っている。
粋のいの字もない(そういうのも好きだろ、自分)。せいぜい夏にはゼリーを多用して涼しさを演出するくらい。
けれども日本人はかき氷だ。
この涼しさに勝てるものか。しかも宇治金時だの、みぞれだのしぐれ(?)だの。名前からして粋で繊細。
氷にシロップをかけてみぞれと呼ぶ、この感覚の何という粋さよ。「お菓子」という、言わば季節とは何の関係もない商品に、涼しさを演出して、暑さを少しでも和らげようという、この日本人のアイデア。
いや、お菓子にさえ季節感をどうしても盛り込もうという、盛り込まずにはいられない日本人のこの、季節への異常なまでの執着。日本人とは何とすぐれた感覚を持っていたことだろうか。
こと季節感に関して、これほど微細な感受性を持つ人種は稀なことだろう。私も西洋菓子は好きだ。
とにかく、お酒がだめな代わり、甘いものが大好きなのだ。ケーキ、タルト、ムース、シャルロット、ミルフィーユ、モンブラン、ワッフル、プリン、カステラ、キンツバ、マユツバ、何でも食らいつく。お菓子である限り嫌いなものはない。
けれども、こと、お菓子のデザインに関しては、西洋は日本の比ではない。とうてい、日本のお菓子の粋さ、繊細さ、簡素でいながらの芳醇さに勝てはしないのだ。
と、夏のお菓子を頬張るたびに私は日本人の季節感を称揚するのが常なのだった。