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05/5/19 京都モダン建築を楽しむ。
05/5/27 タクシーはきらいだ

05/5/27  タクシーはきらいだ

私はタクシーという乗りものがきらいだ。

この世で一番きらいな乗りものだ。

人見知りで小心者なので、初めての人と話すのが苦痛で、タクシーの運転手と密室で二人きりになった時に、気まずい空気が流れてそれに耐えられず、脂汗が出る。

そして、値段が高い。
公共交通機関で行けば安くで済むのに、高額を支払わなければならないのが我慢出来ない。

主にこの二つの理由で、タクシーには乗らないと決めている。

人形に興味をなくしてから(!)京都に興味を移し、京都めぐりをするようになったが、幸いなことに京都は狭い都市なので、タクシーに乗る必要がまったくない。
殆どのところならバスか地下鉄か、徒歩で行ける。

しかし、ごくたまに、乗らなければならない時もある。

年よりと一緒で、雨が降った時など、年よりが歩けないと言い張ったら、タクシーに乗るしかない。

 

けれどもまず、私はタクシーが信用出来ないのだ。

タクシーに、自分の家を告げて行ってもらおうと思っても、まず、正しい住所を言っても、運転手さんが「はい、分かりました」と言ってくれたことがない。

必ず一度えっ?という顔をして、そこは○○でしたかな、などと確認して来る。うーん、と唸る運転手さんもいる。

マイナーな通りだと、運転手は覚えていないのだ。

だから、比較的メジャーな、近い通りの名前を言うことにする。そして、家に近づいたら、そこをもう一つ過ぎて、次のカドを左へ曲がって下さいなどと言わなければならない。

しかも、京都の狭い通りはぜんぶ一方通行だ。車に乗らない私は、一方通行の通りを覚えていない。次を左へ、と思ってもそこは右の一方通行だったりしてややこしい。

これが面倒で、大体家の近くに来たらここでいいですと言って降りてしまう。

これが、長い間にトラウマになってしまっている。

 

そして、運転手さんが、本当に最短距離で目的地へ行ってくれるのか、という疑いがある。

同じ目的地でも、運転手によって値段が安かったり、時間がかかって高いお金を払ったりすることがある。
こういうことに、大変神経質である。

渋滞している通りを通り、ずるずると時間をかける運転手に遭遇すると、わざとではないだろうけれども、疑ってしまう。
最低でも、こいつはもっと混んでない通りがあるのを知らんのか、素人か、などと心の底で不愉快な思いを抱える。

そういう時は、なるべく年寄りとベタな京都弁を使い、今日は混んでるなア、ゴト日やしかなあ、とか、もう床が出てるなァ、などと喋り、地元住民であることを地味にアピールする。

地元であるならば、地理に詳しいだろうし、ズルは出来なかろうという配慮だ。

このように、タクシーに乗るということは、運転手と戦うということなのだ。

だから滅多にタクシーには乗らない

 

05/5/19 京都モダン建築を楽しむ。

教育テレビで、京都モダン建築が放送されている。

「知るを楽しむ」というタイトルの番組で、前半が横浜チャイナタウン、後半が京都モダンという構成だ。
毎日日変わりで、テーマ別に放送されているらしい。横浜と京都モダンは水曜日だ。

書店でテキストブックを(立ち読みで)見ていたので、これはどうにも私好みの番組だから見なければ!と思っていたのだが、番組の時間が10時25分からと、いかにも中途半端。だから、案の定第一回は見逃した。
第二回も、10時半を過ぎてから見た。この中途半端な時間帯はどうにかならないか。

 

それにしても、テレビを入れたらいきなり同志社キャンパスの前でおじさんが喋っている。
そして、御所周辺のモダン建築が次から次へと紹介される。
府庁、聖アグネス教会、ハリストス教会、などなど。

みんな私が行って写真を撮って来たり、注目していた建築ばかりだ。当然だが。
京都のモダン建築に興味のある人ならおなじみのものばかりだからだ。
まるで私のためにある番組のようだ。

そのほか、龍谷大学本館が紹介されていたが、普通のものは入れない内部が丁寧に紹介されていたのが嬉しい。
龍谷大学はものすごくキャッチーだ。すばらしすぎる。和洋折衷というか、擬似洋館に仏壇という取り合わせの妙(?)が、すごすぎる。

旧明倫小学校、現在何とかセンターになっている建物も有名なので紹介されていた。
学区が違うので私は知らなかったが、明倫校というのは聞いたことがあるかもしれない。
これで、新島襄旧邸が紹介されていたら文句なしだったのだが。

それでも、私のようにただ建物の外側を写真に撮るだけでなく、中に入り、内部を詳細にカメラに収めることが出来るのが、テレビ番組のいいところだろう。
普通の市民では、中に入れないという建物も多いからだ。

 

今、京都モダンはブームなのだろうか。こうして番組にまでなって紹介されるくらいなのだから。
それなら、京都モダンの好きな私は嬉しい。

私はモダンというより、ハイカラ、という感じが好きなのだ。
明治の建築はハイカラなところが楽しい。

一生懸命西洋を研究して、西洋を真似、西洋に追いつこうとして建てた日本人の洋風建築。

それは、本場のヨーロッパに行けば、ごく当たり前に建っている、何の変哲もない建物に過ぎないかもしれない。
けれども、明治の日本で、これらが作られた、ということがハイカラなのだ。

明治の京都の街並みの中にこれらが突然建っている風景。それがハイカラ。

本場に比べれば、ちょっぴりへんてこかもしれない。ちょっぴり背伸びかもしれない。けれども、だからこそ愛嬌があって、親しみやすく、とりすましていない。
我々に、親しげに語りかけて来るようなあたたかみ。それがハイカラだ。

西洋そのものではないのだ。西洋の美しい建築を見たいなら、ヨーロッパへ行けば良い。
西洋ふうの建築が、日本の街並みの中に、どのように馴染んで、またはどのように浮いているか、そして、どのように古びて来て、どのように違和感なく町の風景として受け入れられているか。

日本、または京都でハイカラ建築を見るということは、そういうことなのだ。

 

三条通に、ハイカラ建築が建ち並んだ当時の京都の庶民の反応はどうだっただろう。
「あこの銀行は、ハイカラな建物にしゃはりましたなあ」
「ほんまハイカラどすなあ」
嬉しく誇らしげに、そんな会話があったのではないだろうか、などと想像するのだ。


註)
番組の案内人のおじさんは、「京都モダン建築の発見」の作者らしい。

註2)
それどころか、京都工芸繊維大学の教授だという。

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