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3/7 京都議定書の発効とその問題…何だか硬そうなタイトル
3/13 聖書のトンデモ本
3/22  デジタル放送開始…だが

3/22  デジタル放送開始…だが

京都では、4月1日からデジタル放送が始まる。

日本全国で最も遅いデジタル放送対応都市であろう。

このデジタル放送開始を宣伝するため「京からデジタル」というよく分からないキャンペーンを張って、放送業界と市はデジタルの普及につとめている。

けれども、既にデジタル放送が始まっている区域でも、デジタル対応のテレビやチューナーを用意して、デジタル放送を受信している家庭は少ないらしい。

これはもっともだと思う。

よく言われるように、官主体の、上からの命令式で、否応なく広めようとしているから、無理やりになってしまう。
インターネットが、これほど爆発的に普及したのと正反対だ。

私の母は、デジタルになったらテレビを買い換えなければならない、それがいやだ、と言う。

デジタル放送が全国津々浦々まで広まれば、その時点で地上波放送がなくなる。だから、どうしてもその時にはテレビを買い換えなければいけない。
まだテレビが使えるのに、無理やり替えなくてはならないのがいやだと言う。

母はデジタル放送なんかにならなくてもいい、とまで言っている。

なるべくゴミを出さないように…などと言っているそばから、古くなってもいないテレビを、デジタル用の高いテレビに買い換えろと言う。無茶だ。

政府はデジタル放送になれば、こんなに便利だと懸命に宣伝している。
それはそれでいいだろう。確かに便利だろう。
でも、問題はそういうことではない。

チューナーを買えばいい、と言うが、そういう問題でもない。

 

デジタル放送がそんなに良ければ、口コミで、いやでも普及しそうなものだ。けれども、一向にそんな気配がない。

何がメリットなのか、誰もきちんと分かっていないからではないか。

つまり、文字放送だとか、何だとか、そんなものをメリットだと思っている人が、今のところあまりいないのではないのか。
ということは、きっと、そんなものはメリットでも何でもないのに違いない。
誰もきっと、そんなものを欲しがっていないのだ。

高いお金を出して、テレビを買い換えるに見合うだけのメリットだとはどうしても思えない。

何度も言うけれど、もしそれが、誰もがどうしても欲しいと思うようなものなのなら、いやでも爆発的に普及するはずだ。
最低でも話題になり、人々がこぞってデジタル万歳と言うに決まっている。
けれども、誰もそんなことは言わない。噂にもなっていない。

要するに、あろうがなかろうが大して違わない、あまり有用でもない。どーでもよい。

だから普及しないのではないのか。

そんなメリットが考えられないものに、強制的に替えなくてはならない。だから、母のような庶民が拒絶反応を起こすのだと思う。

地上波がなくなれば、テレビのない生活にならなければならないが、それも良いかもしれない。

 

3/13 聖書のトンデモ本

この間、例によって大型書店の中をぶらぶらしていたら、サブカルチャーのコーナーだったかに、ものすごく変な本が並んでいた。
それは、聖書に関する本で、聖書のうそを暴くとか、聖書の真実はこうだ、というような内容の本であった。

どうせサブカルチャーのコーナーにあるのだから、まともな聖書の本ではないだろうとは思ったが、内容は、大雑把に立ち読みしてみた限り、予想通りひどかった。
まあ、タイトルに、爆笑トリビアだとか書いてあったので、トンデモ本の一種だろうから、ことさら目くじらを立てるのが間違いかもしれない。

 

ただ、このような本を誰が読むのかが疑問である。

記述を読めば、熱心なキリスト教徒に向けて語りかけているような気がする。
けれども真面目なキリスト教徒の人ならサブカルのコーナーなんて目も向けないだろうし、読む気にもならないだろう。

近頃の頭の悪い若人が、これをサブカルのコーナーで見かけても、聖書、と書いてあるだけで、そんなものは避けて読む気にならないだろう。

一体誰に向けて書いているのか、誰に買って欲しくて出版しているのか、誰に読んで欲しくて出しているのか、それが謎だ。
ましてやこの本を売ろうとしているのだろうか。売る気があるのだろうか。分からない。

 

そういう疑問だらけの本であるが、内容も、立ち読みしただけだが噴飯ものなのだ。

そもそも作者は誰なのだろうか(作者名忘れた)。作者はキリスト教に詳しい人なのか。
私の推測では、キリスト教を全然知らない日本人が、初めて聖書を読んで驚いて書いてみた、という感じでしかなかった。

真面目に突っ込んでも徒労でしかないので、ひとつだけ例をあげよう。

 

聖書(福音書)には、イエスの言葉として、「上着を取ろうとするものがいたなら、あなたの下着も差し出しなさい」という言葉が、書かれている。

これは、キリスト教校で聖書について学ぶ時、もっとも最初に教えられる基本中の基本のことがらである。中学生でも知っていることである。

それを、作者は、「下着」と聖書に書かれているのを、そのまま、今の我々の着ている下着、つまりブラとかショーツとか、そんなことだと思い込んでいる。

当時のユダヤの世界では、上着というのは今の外套のようなもの、そして下着はわれわれの着ている一般的な服のことを言う、と、中学生で習うことを、この作者は分かっていない。

まあ、このことからして、この本がお話にならないということが自明だと思うのだが、それとも作者は、わざと聖書を曲解して読んでいるのだろうか。

 

そもそも旧約聖書と新約聖書はまったく別のもので…、と、こんなことを言っていても埒があかない。

キリスト教信者は、聖書に書かれていることを信じているのか。

それは、すべての宗教に言えることだろう。

オウム真理教の信者が、麻原の胡座をかきながら飛んだ写真を見て、空中浮揚だと信じているようなものだ。

事実ではないことを信じているからと言って、彼らを批判することは的外れであろう。
信者にとって、それは事実ではなくとも真実であるからだ。

私が言いたいのは、こういう本を出版することは、限りなく無駄だということだ。

トリビアというものがそもそも無駄だとは言えるのだが、今回ばかりは正真正銘に無駄だと思った。

下らないことを下らないと笑う娯楽も今の世にはあるであろう。
けれども、この本は誰が読んでも笑うことすら出来ない。

笑うことが出来るとすれば、作者の無知とバカさ加減だ。

そもそも作者が無知なせいでまともなことが書かれていないこのような本が、誰に向けて書かれているのかを想定出来るはずもなく、ならば誰に向けてもアピール出来ない本など、出版する価値がまったくないではないか。
紙の無駄だ。

 

考えてみれば、最近、こういう無駄本が大量に増えて来た。

今まで、私自身が面白がってそれらを享受して来たが、考え直さなくてはならないようだ。

無駄なものは無駄だと、はっきり見極めなくてはならない。もはや、無駄が美徳の時代ではないのだ。

これらの反省する材料を提供してくれたということは、件の本が無駄ではなかったということになるのだろうか。
いや、読む側にすれば、どのような本であれ、そこから教訓を引き出す事は出来るのである。

 

3/7  京都議定書の発効とその問題

京都議定書が2月16日に発効され、京都は京都という名を冠した議定書の発効に有頂天になっており、新聞には連日、地球温暖化防止、および京都議定書に関する記事が掲載されている。

2月16日には数々のイベントや、記念行事が行なわれてKYOTO PROTOCOLの誕生を祝い、その日の前後から空にはヘリコプターが絶え間なく飛び、静かな住宅街にもヘリ音が鳴り響いた。

4月から、京都には独自の温暖化防止条例が施行される。

1994年に地球温暖化防止会議が行なわれた都市として、京都市は日本や世界に先駆け、率先して温暖化防止の運動を行う模範都市、のはずなのである。

 

だが、ちょっと待て。

京都には、大変恥ずべき事実がある。

模範都市どころではない大恥である。

それを今回、大暴露したいと思う。

京都に住む者として、京都を誇りに思い、京都を愛することにおいては、誰にも引けを取るものではないと思ったり思わなかったりする私である。
けれども、溺愛して、溺愛のあまりに、その極悪な部分をひた隠しにするのは、本当の愛情ではないだろう。

悪い部分も、欠点も、隠したい恥も、正面から見つめ、それを認識することで、初めてそうした部分を改め、少しでも、わずかなりとも、新たに正しい道へと歩めるのではないか。
そう思って、京都の隠したい大恥を暴露するのである。

 

すなわち、京都の恥とは、ゴミである。

つい最近まで、京都市はゴミを分別収集さえしていなかった。

京都のゴミ焼却炉は火力がとても強いのでどんなものでも焼却する、という伝説(?)が、まかり通っていた。
だから、なんでもかんでも分別せずに、同じゴミ袋に捨てていた。
こんなにゴミの分別が遅れていた都市は、他にはないだろう。

今でも京都市のゴミは、燃えるゴミと燃えないゴミの2種類の分け方しかしていない。

スーパーや、コンビニの入り口に行くと、ペットボトルや、トレイや、空き缶をいれるゴミ箱が設置してあり、市民はそこに捨てるようにはしているようである。けれども、いずれもメーカー主体であり、自治体では相変わらず鷹揚な分別収集しかしていない。

それも恥ずべきことだが、まず何よりも、市民自体がゴミに対して、あまりにも意識が低すぎる。

 

仮にも大都市という名がつく都市ならば、ゴミの分別収集に関しては、市民はかなり努力している、というのは、もう周知の事実だろう。

東京都民ならば、ゴミの分別にかなり詳しく、ゴミをひと目見たら、それがどういう種類のゴミで、どこに捨て、どのように処理するべきか、日々の生活をするうちに、自然と身についているだろう。

また東京都はゴミ袋を有料化する(している)という。
それだけでも、ゴミに関してとても神経を使っているということが伝わって来る。

ゴミ袋が有料だ、と聞かされただけで、ゴミの問題は深刻なのだ、と、市民に問題意識を植え付けることになると思う。

 

情けないことに、京都市民は、こういうことに何の意識もしていない。

それどころか、町の中を車で流していて、途中で道の脇に停まり、歩道の、ポプラの木の横に飲み干したペットボトルをそっと置く。そして走り去る。

要するに、木の下にゴミを捨ててゆくのだ。

誰がそこを掃除すると思とるんじゃ。ワシや。おまえが捨てたゴミを、何でワシが始末せなならんね。おい、京都市民。おまえや。そこの女。お・ま・え・や。

失礼、感情的になってしまった。

 

京都市ではなく、業者がゴミ回収を請負っていることもある。
有料でゴミ回収をするゴミ業者である。

この業者はどういう業者なのだろう。ちゃんとしたゴミ処理場を持っているのだろうか。
ちゃんとした廃棄場を持っているのだろうか。謎である。

業者が持って行くゴミは、分別というものをしない。
だから、何を捨ててもいいのだよ、とばかりに、空き缶から、ペットボトルから、紙から、生ゴミから、何でもすべて一緒に袋に入れてしまう。

いくら全部持っていってくれるからと言って、それは違うだろう。

だが、これが京都市民の現状である。おそるべき現状だと言っていいだろう。

京都市以外の人は、これを知って、きっと幻滅したことだろう。

あまりにもゴミの意識が低い。低すぎる。というか、危機感がまったくないのである。

 

新聞の投書欄には、京都議定書が泣く、と書いてあったが、まったくそのとおりだ。

京都が議定書、議定書、とやかましく言うたびに、ゴミの分別もしようとしないくせに、と鼻白んでしまう。

何が議定書だ。議定書が聞いて呆れらあ。
悔しかったらコヤシ買ったら?
悔しかったらもうちょっとゴミに神経質になったらどうなのだ?

 

私の場合、ゴミに出す時は恐怖である。

だからゴミに出す時に、どうやって分別していいか分からないものは、もういっそ買わないことにしている。
どうしても必要でないのならば買わない。その方が安全だからだ。

ペットボトルは買わない。缶コーヒーや、紙パックの牛乳などもいっさい買わない。
ウチでは、牛乳は配達してもらっているから、相変わらず瓶だ。

デジカメを外で使う時に、単三の乾電池を使う。これを使い果たしたあと、捨てる場所が分からないので(本当は区役所に持って行くらしいが面倒なので)、捨てずにずっと溜めたまま、持っている。

いつか、京都がここに捨ててよい、と決めたら、その時に捨てに行こうと思って、それまでは持っている。
なかなか、悲しい話だ。

 

私は思う。

京都市民のゴミ意識は低い。

それならいっそ、もっと根本的に、市民は、ゴミ自体を出さないという意識に変えたらどうか。

ゴミを減らす。そうしたら、むつかしい、面倒な分別もしなくてよいではないか。

ノーベル平和賞を受賞したマータイ女史は、日本語の「もったいない」という言葉を知って感動し、その言葉を広めたいと言ったという。

もったいない。すなわち、無駄なことをなくす。

私は、無駄が大嫌いだ。

まだ使えるのに捨てる。使わないのにどんどん買う。
それほど無駄なことはないし、もったいないことはない。

うちの母は、昔から、一度かんだ鼻紙を前掛けのポケットにしまっていた。一度かんだだけの紙では、まだ使えるからだ。

子供の頃、それをきたないと思っていた。

気がついたら、私も一度使ったティッシュを捨てずにポケットに入れていた。

 

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