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1/7 去年起こった出来事
1/23 旧住友銀行京都支店の問題

1/23 旧住友銀行京都支店の問題

烏丸通はビジネス街で、銀行が集中している。しかし古い建築物も多いので、その保存と開発との間で京都は常に揺れている。

四条烏丸下ルにあったもと何とかという建物は、COCON烏丸という訳の分からない名前の建物として再利用され、新たに生まれ変わった(映画館などが入っている)。
古い建物をまったく別の用途に再利用するというのは、三条烏丸の新風館(もとNTTのビル、京都中央電話局)の例があり、これが大成功した。
外観はそのまま残し、中には若者に受けるテナントが大量に入り、そのおかげで若者が集まるようになり、人の流れさえ変わった、と言われている。
それまでの烏丸三条は、繁華街ではなかった。新風館の中だけ、若者の熱気でムンムンしている。
COCONは、その夢よもう一度とばかり、四条烏丸に新たな人の流れを作ろうと計画された。

このように、京都では最近は古くなった建物を壊すのではなく、ほかの用途に再利用するという方向で事はおおむね流れていた。

その流れに逆らう、大変残念なことが起きてしまった。それが、旧住友銀行京都支店の場合である。

 

もともと京都は戦災に合わなかったおかげで、戦前の建築が残った。中には明治のものもあるが、それらはおおむね文化財指定を受けているであろう。
文化財指定を受けた建物は幸いである。

問題なのは、大正や昭和初期に作られて古くなった建物だ。

烏丸通には多くの銀行が並んでいるが、みずほ銀行、北國銀行京都支店などは煉瓦建築ファンならヨダレの出そうなおいしい銀行建築である。
旧住友も、烏丸通に面した、堂々とした銀行建築のひとつであった。

それが、人々が知らない間にというか、人々に気づかれないように、こっそりとその建物が売られ、人の手に渡り、そして解体工事が始まってしまった。
人々が気づいた時にはすでに、建物の回りに幕が張られ、建物が壊されたあとだったのである。

京都での、最近の建築は保存したいという人々の方向性を知っていて、だからこそ、裏でこっそりと取引をし、表に出ないようにして、建物を解体しようとしたのである。

何とこすいやり方であろうか。

京都には、建築保存のために、今ある建物が破壊されないかとか、新たに建てられる建物が景観を損なっていないかを見張る役割の人がいるのだという(言い方が正確ではないかもしれない…)。
だが、その人たちに気づかれないように、こずるく立ち回ったのが、旧住友のケースだった。

一体誰がこの取引をし、あの建物を売り払い、解体してしまったのか。

もちろん、建物が古くなれば業務に差し支えも出て来るだろう。戦前の建築はしっかりした耐震設計がされていないので、そんな中で働くのは不安だという、社員の気持ちも分からないではない。
けれども、京都の住人ならば、その建物と心中しようという気構えくらいないのか。それくらいの考えであってもいいだろう。
京都の多くの神社仏閣は、そのような心構えの人たちによって守られ、再建されて来たのではないのか。

いや、それはともかく。

 

古くなったら取り壊す。それはまあいいとしよう。
だが、その古い建物が値打ちのあるデザインだったら?

誰かが、それを壊すのは勿体無いと言ったとしたら、そうか、と、一応考えはしないだろうか。
値打ちがあるから壊さないで欲しい、と一般に言われ続けていた建物だったとしたらどうか。

それでもあえて、誰にも相談もせず、こっそり壊したということは、値打ちを知っていながらも、どうしても壊して土地を売って、どうしても儲けたかったからだろう。そんなふうに思われても仕方があるまい。

そんなにしてまで儲けたいのか。こっそりと、こすいやり方で転売してまで。美しいものを崩壊させてまで。

 

烏丸通の、ある銀行は古くなったためすべて解体されたが、新しく建て直す時、今までの建物とまったく同じデザインを採用した。
古くなったので解体したが、耐震設計を強固なものにし、デザインは前のものを踏襲した。煉瓦なども前のとそっくりのものにしたという。
市民に親しまれた建物であり、美しいデザインの建物だったからであろう。

明治や大正期のものならば、指定がつくかもしれない。
でも、昭和になってからの建物だと、重文はともかく、市の指定も、府の指定も受けていないものがある。それらが古くなって、今、どうしようかということになっている。

指定を受けていればおいそれとは壊せまい。
けれども、受けていない建物は、それをいいことに売られ、壊されてしまう。
悪くすれば、指定を受けたら面倒だからと、指定される前にさっさと壊してしまうケースもあるかもしれない。

耐震性がないとか何とか理由をつけて、壊されてしまう。そしてそのあとに耐震性抜群だがつまらない建築が作られる。

いったい、誰がこのようなことを助長するのか。なぜこんなことが起きるのか。

京都の人間は、魂を失ったのか。金儲けのために、まだまだ使える建物も平気で壊すようになったのか。そんなことは、東京の人間のすることだろう。京都人のすることではない。

なぜ、そうまでして開発、開発と言うのだろう。
なぜ、新しく作り替えたいのだろう。
今のままでいいではないか。なぜ、今のままでは駄目なのか。
そんなに沢山マンションを作ってどうするのだ。
なぜ、今あるものを大事にしないのか。

…。いや、今あるものを大事に出来ない状況になって来ているのだ。大事にしたくても出来ない。私もそれは分かっている。分かっているから、歯がゆいのだ。
溢れるように東京資本が流入し、京都の貧しい地主を蹂躙してゆく。
それはあながち東京のせいではない。

最近、京都の人間は東京化していると言われている。考え方が東京化している者が増えていると。
要するに経済至上主義、金を持っている者がいちばん偉いという考え方だ。
グローバリゼーションの、最も悪い影響であろう。
ライブドアの堀江などがアイドル視されるような思考だ。京都では、最も軽蔑されるタイプの人間である(女優たちがあれに群がっている図を想像するだけで、おぞ気が立つ)。
だが、最近それが、その思考方法が変わって来たという。
…。だが、そのことは今ここでの中心的な論旨ではない。

 

旧住友を売ったのは誰なのか。

旧住友銀行なのか。

旧住友銀行を解体したのは、旧住友なのか、それともほかの誰かなのか(住友がどこかに売ったのか)。それだけでも知りたい。

今、京都で指定のされていない建物が、この前例みたいにこっそりと壊されてゆくのではないか。私はそれが心配なのだ。
東華菜館は。進々堂は。私の好きな寿ビルディングは。市役所なども今すぐにでも取り壊されそうだ。
烏丸四条の南東角、私の好きだったあの建物(現在の持ち主不明)も、今テントに覆われている。
烏丸四条の銀行群の写真を撮っておこうと思っていたのに、そうする暇もなく、テントで覆われてゆく。

景観を大事にする、と行って来たのが京都市だったのではないのか。それがこのありさまだ。いったい、何が景観保存なのだ。

と、私は怒っているのであった。怒ったとてせんないこととは知りつつも、イカリが隠せない私であることよ。


註) 銀行の統廃合が激しくて、正確な名前がよく分からない(>_<)。旧住友については新聞記事のとおりにした。

1/7 去年起こった出来事

さて新年を寿いでいる間にもどんどん日は過ぎゆく。月日は百代の過客であるのだ。ここで今更だが、なぜか誰もがもう忘れているかもしれない去年起こった事件などについて、ひとこと総括してみたくなった。

何故かならば、昨年は非常にいろいろなことが起こった年だったからだ。あまり良いことはなかった。どちらかと言えば、目を覆いたい非情な事件が多かったと言えるだろう。
地震・台風などはもちろん、年金問題、NHKの不正、大阪市の無駄使いなど、庶民がひとこと言いたい問題も多かった。
犯罪はどうであろうか。

犯罪にからんで、あの宅間守の死刑執行があった。そして、神戸児童殺傷事件の、いわゆる「酒鬼薔薇」の釈放があった。そして、年末の奈良児童誘拐殺人。
どれもが不愉快な事ばかりだった。
どちらかというと、思い出したくもないことだ。きっと、皆が、口に出すことも嫌だろう。

宅間守は、早々に死刑になってしまった。というか、異例に速い刑の執行だった。
自分の罪を、罪だと認識しないまま、犯人の要求どおり、死刑に「してあげた」、と、マスコミは批判した
確かに被害者の家族は、一刻も早く、彼がこの世からいなくなることを望んでいただろうけれど、それだけ(いなくなることを実行する)では何にもならない。彼は死にたかったのだから、その希望を汲んでやるというのは、刑に服することとは違うのではないか。
犯したことがどれだけのことであったか、どれだけの重要なことであったか、を本人が認識してからでないと、刑の意味がないだろう。
または、本人がいちばん嫌がることを執行する。それが刑なのではないか。

では、本人がいちばん嫌がることとは何だろう。
きっとそれは、生きることだったのだろう。

誰からも愛されずに生きる。
けだもの、と軽蔑され、虫けらのように扱われながら生きる。
それが、彼のもっとも忌み嫌うことだったのだろう。そして、それはすでに、おそらく実行されていた。彼の親によって。
どこまでも、救いのない、後味の悪い、宅間守の事件だった。

「酒鬼薔薇」の釈放(少年院から出ることを何というのだろう、よく分からない…)はどうだろう。

この事件で感じたのは、なぜ加害者がこれだけ厚い保護を受けるのかと言うことだ。まるで、ガラス細工を扱うようにこの青年を扱い、保護している。人を二人殺しているというのに。
被害者にしてみれば、いくら少年であれ殺人者には違いない。それが、更正したにせよ、何年か経ったら(それも、あまりにも短い時間だ)まるで無罪放免で、何のお咎めもなしになる。
彼は、普通の市民に戻ってしまう。二人も殺しておいて、あまりにも非情な措置ではないのだろうか。しかも、本当に更正したかは、彼が死なないと分からない。

奈良の児童誘拐殺人事件は、今後このタイプの事件が増えるだろうという、嫌な予感を抱かせる事件だった。

この事件では、日本における児童ポルノの野放し状態が問題になった。

私も本屋に行って感じたことがある。
漫画の売り場へ行くと、背表紙でさえもが、目を背けたくなるような児童ポルノの絵が書かれた漫画がある。平気で売られている。ロリコン、というオブラートに包んだ呼び方で、半ば公然と、日本では認められているのだ。

こんなにいびつな、異常な、グロテスクな欲望が、ロリコンという言葉で平気で日本で認められている。ロリコンという言葉によって、それがいかにグロテスクかということを誤魔化してしまっているのだ。そうして、世の中はその言葉にごまかされ、それが、平気な世の中になっていってしまっている。

私が見たロリコン漫画の背表紙というのは、まだ陰毛が生えていない5歳くらいの少女が、恥部を丸出しにして、オシッコを強要されている場面だ。
そんなのが、平気で普通の書店で売られているのだ。
私はあえて、こんなに嫌らしい言葉を書いた。それがどれだけグロテスクなことかを分かって欲しいからだ。
確かに、女性向のいわゆるボーイズラブの描写も、インターネットで見るものにはどぎついものがあり、野放し状態ではあるけれども、だからと言ってそれを見た女性が、男性を強姦することは出来ない。

小林薫事件では、また、性犯罪の再犯率が高いにも関わらず、刑期を終えたらそれで再び野放し状態になってしまう日本の法律も問題になった。日本が性犯罪に甘く、あの、大学生の集団レイプでも問題になったように、罪が軽すぎることが問題なのだろう。

拷問という刑罰は、近代ではなくなったが、私は、性犯罪に限り復活させてはどうかと思った。
つまり、性犯罪を犯した人間は、アソコをちょん切るという刑罰だ。
この刑を受けたら一生再び性犯罪は犯せない。
レイプされた女性の方は、男性の感覚でいえば、ソレをちょん切られるような苦痛であるはずだ。

日本の性犯罪の認識の低さと共に、男性がやはり、おかしくなっていることもあるのかもしれない。
女性が強くなりすぎているために、普通の女性と対等に話せない。オタクが増え、自分のことしか考えず、他者とうまくコミュニケーションが取れず、相手の考えることを想像することの出来ない、想像力の欠如した人間が増えている。
それは、自分勝手な親がそんなふうに子供を育てたからだ。
だから今後、このような人間が増える、と考えるのだ。
もう一度、女性は考え直さなくてはなるまい。
家事は確かに楽になった。その代わり、捨ててしまったものが沢山あるはずだ。もうそろそろ、楽ばかりすることはやめないか。

これ以上は長くなるのでこの辺でやめる。新春早々、やっぱり気が滅入ってしまった。

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