11/

11/3  京都のにせ舞妓
11/11 京都の赤くないマクドナルド
11/17 関西弁のCM

11/17 関西弁のCM

関西のCMは関西にしか流れていないと思うけれど、どの一帯まで流れているのだろうか。
四国の姪は、「タケモトピアノ」*は四国に流れていないので、こちらで見られるのは嬉しいなどと言っていた。
やはり関西圏のみのCMもあるようだ。

*みんなまーるくタケモトピアノ、と歌うのと、
もっともっとタケモットと歌うバージョンがある。

最近見かけるベタな関西弁のCMは、なかなか面白くて好きだ。

ICOCAという、タッチしただけで改札が通りぬけられるカードのCM。
関東ではスイカSUICAというのらしいが、関西ではイコカである。

で、イコカのCMは、若い女の子とずんぐりむっくりの青いカモノハシ(?)の着ぐるみがコンビで出て来る。
最初のCMは、
「ICOCAでイコカ」とカモノハシ君が言うと
「ICOCAで行こうか」と女の子が復唱する。
それをカモノハシ君が発音が悪い、「ICOCAで行こか」だ、とたしなめるバージョン。

第2弾のCMでは、
「ICOCAでいこか、タッチしていこか」
「マネしていこか、タッチしていこか」
「ちゃっちゃとイコカ」
という掛け合いになっている。

関西弁は、リズムがあって覚え易くて、楽しい。まるでラップのようだ(のつもりなのだろうか?)。
大阪弁は、黒人におけるソウルミュージックのように、もともとリズムのある方言なのだろう。

もうひとつ気に入っているCMは、ツーカーホン関西の、ファミリー割引のCM、ツーカーV3。
怪しい外国人の3人の刑事が、ベタな関西弁で犯人(?)を追い詰める。

「払いすぎちゃうんか」
「ほんま、ええかげんにしときや」
「きりないっちゅう話や」*

関西在住の外国人タレントを起用して、実際に関西弁をしゃべってもらっているという。

外人と関西弁、と言うミスマッチがとてもおかしくて楽しいCMだ。第2弾もある。

*ちなみに、「〜ちゅう話や」はただ今関西で流行中の言葉。

関西のCMというと、どうしても関西電気保安協会が思い浮かぶ。
このCMは今も健在だ。

「かんさいでんきほーあんきょーかい」という脱力を誘うコーラスで最後を締めるのは全バージョン共通。

ちょっと前は、マリオネットを起用していて、洗濯機を調べようとしている保安協会のおじさんという設定で、洗濯機から真っ赤なパンティがはみ出しているのを、このマリオネットおじさんが見つけて、
「見ては駄目、でも見なくては調べられない、でも見ては駄目。」
と苦吟するというものだった。

それから保安協会の若手とおじさんが向かい合わせになってアップで写っており、
おじさんが「これから○○○を口移しで伝授する」
と言い、若手が躊躇わずに「はい」と返事し、
それから意味ありげな間があき、というバージョンもあった。

最近また新しいバージョンが出来ていて、おじさんと中年女性というシチュエーションで、滅茶苦茶おかしかったが、一度しか見ていないのでセリフが覚えられなかったのが残念だ。

 

11/11 京都の赤くないマクドナルド

もうひとつ京都ネタである。

最近マクドナルドの経営が悪化し、赤字を抱えているようだ。
別に京都のマクドナルドのせいではないとは思うけれど、少し気になる。
京マクが遠慮がちなせいではないだろうかと心配である。

 

京都のマクドナルドは赤くない、という話である。

京都には景観条例があるためマクドナルドの赤は禁止されている、ということに基づくのだが、京都だけでなく、景観保存指定地区などは、同じように赤くないのではないかという気もする。
例えば倉敷の美観地区などは、赤ではないのではないか。それともああいう地区にはマクドナルドはないのか。

ともあれ他府県のことは知らないので、京都以外にも赤くないマクドナルドはあるとは思うが、とにかく京都のマクド(関西での略語)が赤くない、というのは本当だ。

しかし京都でも繁華街では赤でも構わない。四条通や河原町通などの繁華街のマクドナルドはほかと同様派手な赤の看板だ。
マクド以上に派手な看板がいくらでもあるから当然だろう。

しかし美観地区、景観保存地区では赤く出来ないようで、時々茶色のマクドナルドを見かける。

麻生圭子は、茶色のマクドナルドは、肉が腐った色みたいでまずそうだと酷いことを言っているが、私は茶色が別に肉が腐った色だなんて思わないし、まずそうだなどとは思わない。
茶色は好きな色だ。
ただ、すごく地味だ。

 

マクドナルドは、派手な赤にしてほかより目立とう、というしごくアメリカ的な発想から看板を赤くしているはずだ。
しかしその、出来るだけ派手に、出来るだけ目立って、ということが、京都のマクドには根本的に欠如している。

派手でないマクド、地味なマクドなんて、マクドナルドの設立の主旨から外れているのではないか。そんなパラドックスを、茶色のマクドを見るたびに思うのだ。

私の家の近く、京都駅の近くの駿河屋の一階に入っているマクドナルドも、茶色だ。

しかもテナントビルの一階なので、ほかの看板も掲げられているから、ものすごく遠慮がちである。なんというか、わびさびの風情のするマクドナルドなのである。

すぐ横には駿河屋のお饅頭が売られている。そのビルの一角に、マクドが間借りしているという形だ。

でも京都駅の近所だから人通りは多いし、そんなに景観を気にするような地区でもなさそうなのに、なぜ茶色なのだろう。
それが謎なのだ。
すぐ横には東本願寺があるし、その前は仏具屋さんや数珠屋さんが並んでいる。そのためだろうか。

でも、さらに横にはあの京都タワービルがあるし、ピカピカの京都駅も鎮座しているのだ。
また向い側にあるパチンコ屋の立て看板は、普通の赤いマクド以上に派手だと断言できる。
にも関わらず、あそこのマクドナルドを茶色にする意味は何だろう。疑問だ。

まあ、老舗の駿河屋ビルに気を使っているのだろうというのが、私の結論だ。
駿河屋に間借りしているので、そのビルの雰囲気を壊せないということなのではないか。

だが景観を気にするというなら、パチンコ屋の派手な看板こそどうにかしたい所だ。
けれども、まるで規制はマクドナルドのみであるかのような按配だ。それも疑問のひとつだ。
もしかして、京都マクドナルドが気を遣って独自に自主規制をしているのだろうか。

 

もうひとつ、不思議なマクドナルドがある。

七条京阪の南東角、七条川端に、昔からマクドナルドがあった。

この間、久しぶりに、七条河原町から(というか、家から)国立博物館まで歩いて行った。
七条通を博物館まで歩いて行く途中、七条大橋を越えながら、確かあの角にマクドがあったよなあ、と思った。
だが、七条通の北側を歩きながら向いを見ているのに、それらしい建物がない。歩き過ぎながらいくら探してもマクドナルドが見つからない。
あれ?ここにあったはずのマクド、ないなあ、ひょっとしてなくなったのかなあ。

そんな風に思って博物館からの帰り、今度は南側を歩きながら、もう一度マクドナルドを探した。

そうしたら、ちゃんと前と同じ場所にマクドはあった。
ただし、赤くなかった。

何色だったかというと、白だったのだ。
ガラス張りの、テラスかサンルームのような建物になっている。

ロゴも白。マクドというよりしゃれた喫茶店である。フランス風のレストランかと思った。
よっぽど近くへ寄らないとマクドだと分からない。
地味というより、こんなサンルームのような小じゃれたマクドなんて、これには少なからず驚いた。

昔は赤だったのにいつからあんな風になったのだろう。それに、またなぜ、白になったのだろう。
近くには三十三間堂がある。そのせいだろうか。

いずれにしても小じゃれていて清潔そうだったので思わず中に入った。

初めての人は、絶対これがマクドナルドだとは、通りから見ているだけでは分からないだろう。
京都のマクドナルドは、こんな悠長なことをしているのか。私もこれは初めて知った。

景観に溶け込んでいる、と言えばそのような気もするが、もしかしてこのような商売をしているから赤字になるのだろうか。
白いテラスのマクドナルドは少なからず気に入ったので、なくなって欲しくはないのだが。

***

 

因みに、東京ではマクドナルドをマックと略するようだけれど、これを関西でそう言うと、気取りやがって、と必ずボコボコにされる。
関西ではマクドというのが正しい。

なぜなら、新聞までがマクドという略語を使っているからだ。関西では新聞までがマクドと略するのだ。

関東の人がマックと言うのは、別に気取りでもなんでもないのにボコボコにされたりして可愛そうだが、関西人が聞くと気取りに感じられるのだ。
関西で関東弁を聞くと気取っているように感じられるのと同じことだろう。

 

11/3 京都のにせ舞妓

先日、京都の地方新聞「京都新聞」に、高知県から来た若い女性の観光客の、京都観光に来て不愉快な思いをしたという投書があった。

京都では素人に舞妓さんの恰好をさせるサービス(有料)をよくホテルなどでしているが、彼女もにわか舞妓に仕立ててもらって京の町にくり出したらしい。
そうしたら、観光地の案内係の人に、「この子は本物の舞妓ではないから」とさんざんに言われ不愉快だった、というのだ。

舞妓の装束をさせてもらうにはそれなりにかなり高い金額がいるらしく、髪もちゃんと結い、着物もそれなりのものだったらしい。それなのににせものと言われ、せっかくの京都観光が台無しになった由。

しかし、この観光地の案内係の人の気持ちは、実によく分かる。

私たちも、普段京都の町を歩いていて、時々舞妓さん、または舞妓さんのような人を見かけることがある。

見かけたのが祇園界隈だったり、それなりの場所だったらああ舞妓さんか芸妓さんだなと思うが、あまり関連のない場所で唐突に見かけると、これは怪しい、と思う。

それで連れと、
「あれ舞妓さんの恰好してるけど違うな。舞妓さんはあんな歩き方せえへんし。偽もんやな」
などと囁き合う。

そのあげく、
「きっと観光客が舞妓の恰好してるんやな。どうりでぎこちないし、品がないと思た」などと評する。

どころか、舞妓さん(のようなもの)を見かけると、京都人は即刻そのものが本物か、偽物かを判定しようという本能が働く。最近、にせの舞妓が増えたせいだ。

 

京都人にはもちろん本物の舞妓さんかにせものの舞妓さんかは、一目で分かる。

その上で、偽ものの舞妓を嫌う習性がある。
それはしょうがないだろう。
誰でも、舞妓のまねをした素人を見て喜ぶわけがない。

もちろん舞妓さんの恰好をする観光客は、別に、自分は本物だと主張し、誰かを騙そうとしてそんな恰好をするわけではない。
ただ舞妓さんがきれいだから、せっかく京都に来たのだから、きれいな舞妓の格好をして京都の町を歩けば一生の思い出になる、そう思ってそうするのだろう。
にせものという意識もないに違いない。
ただ舞妓の恰好をさせてもらっている、と思っているのだろう。

それは、それで構わない。
だが京都人は、それを許さない。

というか、そのことを決してもろ手を上げて歓迎していないし、むしろ苦々しく思っていることは確かだ。

 

舞妓の恰好をする観光客は、そのことははっきりと頭に入れておくべきだ。
京都人は、偽舞妓を極端に嫌うのだ。

京都人にしてみれば、舞妓でない者が舞妓の恰好をする「にわか舞妓」はにせものということだ。

本物とは似ても似つかぬくせに、恰好だけ真似したい浅はかな奴、という含みが心の中にある。

自分の町に舞妓でないただの素人の観光客が、そんな恰好をしてぎこちなくうろついていたら、誰が嬉しいだろうか。

高いお金を払って舞妓の恰好をさせてもらった、などと言うのは、そっちの勝手ではないか。
自分が好きで金を払ったのだから文句を言ういわれはない。
髪を結うのだって、本物の舞妓さんは毎日結っているではないか。

 

京都の人が偽舞妓を見て、
「いやあ、きれいにしゃはって」などと思うことはまずない。

「あの髪、本物やろか」
「上手に化けてるな」
はまだ良い方で、

「あれで舞妓のつもりか」
「もうちょっと何とかならんのか」
「あんなでよう舞妓になる思たな」

というあたりが京都人の本音である。

偽舞妓を見たら必ずそれくらいのことは、京都人は思っている。

舞妓の恰好をしたいと思うなら、それを見た京都の人に、そう思われていることを承知した上で、なってもらいたい。
だから京都人にそれをあれこれ言われて文句を言うのはおかしい。


註)もちろんこういうことを新聞誌上に投書したらボコボコにされるので、心の中で思うだけの小心な京都人である。

 

≪後日談≫

一週間後、投書のレスが、また京都新聞上に載せられていた。曰く、

「ある観光地で、そのようなにわか舞妓が散策に疲れたのか、しゃがみこんでたばこをプカプカさせていた。その姿を外国人観光客がカメラに収めていた。」

そんな奴は、舞妓の恰好をする資格すらない。言語道断である。私たちは本物の舞妓さんとにせ舞妓の区別がつくが、他府県や外国の人にその区別はつかないかもしれない。
そういう奴が、わが町の評判を落としているとしたら半死にの目にあわせても足りない。
にわか舞妓にも、舞妓の恰好をする資格試験が必要なのではないか。
にわか舞妓よ、京都を汚すな、と私は怒り心頭に発するのである。

03/11       TOP/HOME


 

 

 

 

2style.net