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7/10 阪神は燃えているか Is Hanshin Burning
7/22 「ターミネーター3」
7/29 「から問題」のその後 「レシートお返し」

 7/29 「から問題」のその後 「レシートお返し」

以前、この日記で「から問題」を取り上げたことがあり(02年9月)、その時にかなりの人から反応があり、それによって「から」に不快感を感じている人、疑問に思っている人が(若い人の中にも)多くあることが分かり、あれはどうかということになって、そしてそれが人々の口に登り、批判され、論争になって、「から」がそのうちレジや売り場から消えて行ったということがあり、この「から問題」は解決した、と私は思っていた。

しかし最近(数ヶ月前だが)それが新聞などのニュースになり、寝た子を起すというか、もう終わってしまったと思っていたのに今ごろ俎上に乗せるものだから、再び「から」が脚光を浴びてしまっているのではないかという気がして来た。

ニュースのインタビューなどでは、若い人がレジ係に「〜からお預かりします」と言われてもあまり気にならない、と答えていたりするのだ。
こんなインタビューはヤラセではないのか。

或いは、今の若者は日本語の言語感覚にはとうに鈍感になっているから、間違った日本語に対しても大して気にならないのだということだろうか。
それでもあの時インターネットでは、その若者自体が「から」はおかしいと言い募っていたように思うのだが。

「仕方ない」とか言わないで、日本語として間違っている表現なら、おかしいと思えばおかしいと言わなければ駄目だと思う。
新聞やテレビのニュースでの、「こんな時代になって来ました」的諦めの境地のような取り上げ方は、非常に不満を感じた。
おかしいものはおかしいのである。

そのせいで最近また「から」が増えているような気さえする。
そうであれば、絶対に再び駆逐しなければならないと思うのだ。

 

と、ここまでは前フリで、今回は、再び「レジ語」、或いは「コンビニ用語」に疑問を呈するのである。

今回は、「レシートをお返しいたします」という言葉についてである。

お釣り銭なくきっちり支払った時に、レジ係はレシートを呉れる。
「レシートです」とくれればいいものを、「お返しします」などと言う。

「返す」というのは、何かを借りるという行為が先行する言葉であろう。或いは、主体が自分なら何かを貸す、という行為が先行していなくてはならない。
「借りた」から「返す」のは当たり前である。
「貸した」なら向うが「返し」てくれるという話もわかる。

しかし私はレジ係にレシートを貸した覚えはない。
レジ係が、私に何かを借りた様子もない。

私にも道理は分かっているのだ。

お釣り銭を渡す場合、レジ係は「○○円のお返しでございます」などと言う。
その括りから、お釣り銭がなくても、レシートだけでも「お返し」という言葉を使うようになったのだろう。

本来ならば、釣り銭を「お返しします」と言うのもおかしいのだろう。
しかしこれがレジでの丁寧語として定着してしまった。
そのため、釣り銭なしの時でも同じような「一見、丁寧に対応しているように見える言葉を使う」という発想から、「レシートをお返し」という、珍妙な日本語を発明したものなのだろう。

私が何となくむかつくのは、こういうマニュアル用語を使われると、本当に丁寧だとは到底思えず、ただ「さも丁寧であると見せかけている」ようにしか見えて来ないからなのだ。
というよりも、愛想をされた、としか思えない。
インチキ日本語を発明する前に、客に心から感謝し、買ってもらったことをありがたく思っているのなら、普通にレシートを渡しておれば、客だって納得するはずだし、それだけでも気持ちがいいはずだ。
そんな、見せかけの、言葉だけの間違った丁寧さなどはいらないのだ。
珍妙な日本語を使っていることを、彼らは恥じるべきだ。

なぜ普通に「レシートです」と言えないか。(レシートをお渡しいたしますでもよい)

或いは、客は馬鹿ではないのだから見ればレシートだと分かる。
「ありがとうございました」だけでもよいのだ。

こういう日本語を使われるたびに、ああ、心がこもっていないなあ。形式をなぞっているだけに過ぎないのだなあと私は思ってしまうのだった。

 

7/22 「ターミネーター3」

*別の項で「T3」のネタばらしはいけないとか書いておきながら、ここでは多少書いていますので注意(^_^;)

 

「ターミネーター」が好きであるので、取るものもとりあえず急いで3を見に行った。

Tシリーズについては別の項に書いたが、まだまだ書き足りない。何だか、自分の書きたいことがどんどん書けなくなっているような気がする…。

それはともかく、ジェイムズ・キャメロンが「殺人魚フライング・キラー」(私は未見)でデビューしたのは、ロジャー・コーマン門下においてだった。
ロジャー・コーマンは、世の人が絶賛するほど弟子を育てるのに尽力したわけではないらしいけれども、それでも若い才能に場を提供する、という点でアメリカ映画に貢献していることは間違いはないだろう。

私は、キャメロンの第2作(だったと思う)「ターミネーター」を見て以来、たとえ、アカデミー賞授賞式で「俺はキング・オブ・ザ・ワールドだ」*と言い切って世の人の顰蹙を買った時でさえも、彼のことは信頼というか、他の監督に比べれば自分の感覚に合うとずっと思って来たのだ。

*もちろん、「タイタニック」でディカプリオが言うセリフを引用したのである。

「ターミネーター」が私の気に入ったのは、ストーリーもそうだけれども、やはり演出力が第一だった。
ぐいぐいと見る者を引き込んでゆく、有無を言わせぬ骨太の演出がとにかく痛快だった。
他にも評判になったアクション映画はいくらもあるけれども、私は演出のセンスにおいては、誰よりもキャメロンがずば抜けていると思った。
例えば(アクション映画はそれほど見ていないのだけれども)「ダイハード」や「スピード」などは、確かに面白いかもしれないが、面白いだけであって、私には当たり前のアクションでしかないと思える。その証拠に、今では殆ど覚えていない。
そうしたアクションものを見るにつけ、やはり「ターミネーター」はワン・アンド・オンリーだったと今更に思うわけなのだ。

「ターミネーター3」は、そのジェイムズ・キャメロンの手を離れている。
それなのにどういう経緯で「T3」が製作され、公式に「T3」と名乗り、シュワルツェネッガーの主演を仰ぎ、キャメロンの了解を取ったのかということは、最近映画にはとんと疎いので私には何も分からないのだが、ともあれ「T3」は製作された。
と同時に、それは「T1」「T2」の遺産を正当に継承しなければならないという枷を嵌められていることでもある。
「ターミネーター」はごく普通のアクション映画であっては、いけないのだ。

それと共にシリーズとしてのお約束、これまでの物語の経緯、始めて見る者への配慮などにも気を配らなければならないので、むつかしいところに来ているのは確かだ。

未来から来るターミネーターはまず全裸である。
T3で出て来る女性型のサイバーダインも美しいヌードを見せている。シュワルツェネッガーも、久しぶりに全裸になって、相変わらず見事なボディを披露している。
これを見ると、もしターミネーターがまだシリーズとして続くとしても、シュワがこれに出るのはもう最後だろうと思う。あと10年後に、シュワがこの肉体を保っているのは不可能だろう。
それともやはり、「ターミネーター」は2で終わるべきだったのだろうか。

「T3」は「T1」「T2」と同じように、ジョン・コナー(主人公)が未来から来たロボットに追われる、というストーリーをなぞりながら展開してゆくが、アクション場面がやはり「普通の」アクション映画でしかなくなっているのが惜しい。
シュワルツェネッガーがプログラムを書きかえられ、主人公を殺さざるを得なくなる場面で苦悩する。おそらくここが、「T3」の最高の場面だろう。
前作、前々作を踏まえての設定がよく利いている。
棺桶を担いでのアクション・シーンもかっこよかった。こういう工夫されたアクションには、私は好反応するのだ。

しかし、ターミネーター・シリーズにおいて、最も作品の基調になっているのは、本来は浪花節の部分なのだと思う。

アクションと、ウェットな部分との緩急の絶妙な具合が、キャメロンの真骨頂だったと言えるのではないか。
「T2」のラストで、コナー少年が行かないで、と泣く場面では、ごく普通の映画だったなら陳腐だと思ったかもしれない。でも、「T2」であれをやられたら、誰でも胸がキュンとなるのである。
そういう部分が、「T3」には配慮されていなかった。そこがこの3作目の弱い所であり、キャメロン映画ではなくなった所以だろう。


「ターミネーター」フィギュアはこちら こちらにも
関連文

 

 7/10 阪神は燃えているか Is Hanshin Burning

阪神タイガースが優勝しそうである。

で、野球の話。

註1・巨人のファンは怒らないで下さい。
註2・話が若干古い。

 

私は、ネット上でこのことを発言するのには不都合があるかもしれないと思い、長く秘して来たが、ついに告白してしまうと、どちらかというと、阪神ファンであるというよりも、アンチ巨人なのであった。

この際勇気を振るって言ってしまうが、巨人がきらいである。

きらいなのにはいくらか理由がある。まず選手が嫌いである。球団が嫌いである。金銭体質が嫌いである。
子供の頃、野球のことなど何も知らなかった頃は、典型的な「巨人・大鵬・卵焼き」系で、確か長島選手などが好きだったはずなのに、なぜ大人になると巨人が嫌いになるのだろう。

それはともかく、記憶を辿ってみると、嫌いな巨人にも好きな選手はいた。

まず国松選手(と言っても誰も知らないはず)だ。何故好きだったかと言うと、石田国松と同じ名前だったからだ。
そしてまた殆どの人は覚えていないだろうが、篠塚選手であった。彼の職人的なバッティングセンスと守備が好きだった。阪神で言うと真弓選手あたりになるだろうか。徹底的に地味に底光りするというタイプの選手が好きだったのだ。
しかし、好きなのはそのくらいである。

原辰則(字は違うかもしれない…よく知らないので)選手が出てきたときも、嫌いだった。

何となくお坊ちゃん的で優等生的、苦労知らずのちやほやされどおしのわがまま坊や的な所が大嫌いだった。風貌も若大将的なさわやかさがわざとらしく、私の趣味にはまるで合わなかった。
だからこの選手が引退した時ももちろん何の感慨もないし、興味のきの字もなかった。

その原選手が何と巨人の監督になってしまった。これには敵(阪神ファンは通常、巨人を敵とみなしている)とはいえ驚いた。
その驚きとはもちろん「あの青二才に何が出来る」という驚きである。
しかも、この青二才が巨人を優勝させてしまった。ますます驚いた。

私はこの時、つまり原巨人が優勝した時、初めて巨人に対して好感情を持った。

巨人は嫌いだったが、原巨人が優勝した時は、お若いの、なかなかやるじゃねえか、という気持ちだったのだ。まあ原監督一人の力で優勝したのでもないだろうが、表面的に見たら、原監督になった途端の優勝だ。彼のおかげという気がどうしてもしてしまう。

今も巨人は嫌いだが、「原巨人の優勝」には素直に盃を手向けたいと思う(私はどこかの親分か)。

 

さて阪神である。

私は阪神ファンと言っていいとは思うが、普段はかなり斜に構えて…というか、例年は殆ど興味がなく、阪神に対しては非常にシニカルであり、しかも野球に対してさえ興味がないのだ。

いつも6月くらいまでは何となく野球が気になるが、それ以降は、日本には野球が無いものとして過ごす。シーズンの終わりにどこが優勝しようが、ほとんど気にならない。

ひょっとしたらこの私の態度が、ごく一般的な阪神ファンの例年の態度であるような気がしてならない。そんなことはないとは思うが、かすかにそのような不安を持っていることを告白しておく。

それに比べれば、亡き父は模範的な阪神ファンであった。

シーズン終わり近く、阪神の優勝はとっくになくなっており、もちろん下位低迷、しかも優勝チームまで決まっているという消化試合。
そんな消化試合のテレビ中継を最後まで律儀に見、「このピッチャーは上手いさかい、気をつけなあかんにゃ」とか、「ここで何の気なしにゴロを打ったらあかんね。ここに走者がおるさかい」などと呟き、「ああ惜しかったな」(もちろん負けたのである)などと中継が終わるのを惜しむ。
阪神ファンの鏡と言えたのではないだろうか。
阪神に、このような純粋で健気なファンがいたということを、私は誇りに思う。

優しい父が、阪神に対してただひとつだけ怒っていたことは、かなり昔、父が西京極球場(京都の唯一の野球場)へダブルヘッダーを見に行った時、2回とも阪神が負けてしまったということだ。
曰く、「2回とも負けやがんね」。

 

85年の優勝時には喜びのあまり、デイリースポーツ1年分をひとまとめにした冊子を買った。
私はそれまでスポーツ新聞というものの存在を知らなかった。今もその本は健在であり、家のどこかに埋もれているはずだ。

阪神ファンはこのように、ひとつの優勝を末永く喜ぶ、という美点がある。
あの栄光の3連続ホームランは、人類の歴史上に最重要項目として語り続けられると信じて止まない。
あの栄光の3連続ホームランを見るたびに溜飲を下げる。
あの栄光の3連続ホームランを見るたびに、阪神ファンは至上の喜びに満たされる(この辺コピペ)。

 

私の母は、父と正反対で、巨人ファンであるらしい。自己申告を決してしない人だが、母の野球中継を見ている態度を考えれば、巨人ファンであることはほぼ間違いない。

父が健在だった時にも、家族で阪神の試合を見ていると、「(観客席が)空いているなあ」と言い、私と父を常にむっとさせた。反対に巨人の試合を見て、「今日もいっぱいやなあ」と言うのは言うまでもない。
巨人の選手にやたら詳しく、巨人の試合経過を気にしている。
阪神ファンの狂態を見て、「アホやな」とか「気ちがいや」などと常に呟いているから、―もちろん、阪神ファンの狂態については母の判断は大変正しいのだが―、母が典型的な巨人ファン=アンチ阪神であることは、間違いないと思う。

家族内で敵味方になってしまうと、とても始末に悪い。
父が阪神ファンだったから母は遠慮して巨人のファンであることを公言しなかったが、まあ、家族間の無言の心理的かけひきが、常にシーズン中存在したのである。

 

しかし、そんな重圧も今年は無縁である。
「空いているなあ」どころか、いつでも阪神の試合は満員である。
常に勝つから、どうよどうよである。

母が「今日は阪神負けてるなー」と言っても、翌日には新聞を掲げてあれから阪神勝ってるやん、と言う時の、私の心の底からの喜びを、誰か理解する人はいるであろうか。
溜飲を下げるという言葉は、この時のためにあった言葉であると、私は信じて疑わない。

あの栄光の3連続ホームランを見て溜飲を下げるしかないという、いじましい行為を今年は(今年だけは?)もうしなくてもいいのだ。
パーティの準備は出来たかい(byバース)。

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