k036

6/11 続・捨ててはいけない 「買わない技術」?
6/27 ポルノグラフィの想像力 突然エッチですいません

6/27 ポルノグラフィの想像力 突然エッチですいません

私が小説や漫画がきらいなのは、一つにはそれが自分の思い通りには展開しない、ということがあるからだ。

自己表現や、ある世界観の提示としての文学などは作品として享受する場合もあるが、物語として受け取る場合、よほどのストーリーテラーのものでないとつらいという、動かし難い現実があるのだ。

例えば手塚治虫など、物語性において圧倒的に抜きん出た才能である場合は、ひたすらそれを享受するだけで不満は出て来ない。
読む側よりも、表現者の想像力の方が圧倒的にすぐれているからだ。

しかし、そうした天才以外の作者の殆どは、読む側の想像力とほんの少しか、或いは殆ど変わらないのではないか。誰もが豊かな想像力を持っているわけではないのだ。たとえ作家でも。似た程度のものでしかないと、私は思うのだ。

ごく普通の才能の書いたストーリーの場合は、常に不満が付きまとう。
私ならこうでなくて、こういう展開にするのに!
という具合に。

そうした他人の想像力を読む場合、時にはお尻がむず痒くなる、ということもある。だから私はテレビドラマなども大嫌いなのだ。他人の不全な想像力を見せつけられて、不快になり、苦痛を感じるのがいやなのだ。

自分の望む展開と全く違う話になればつまらないと思う。また、望み通りの展開になったらなったで、安易すぎるとしらける。
どちらにしても他人の想像力では、自己の物語欲求はどうしても満足出来ないのだ。

それならばと考えた。
それならば自分でストーリーを考えた方がましだ。それで書いてみる。

自分で書くのだから、望み通りの展開になるのでストレスが溜まらない。非常に快適だ。
でもあまりに展開が容易でハッピーすぎるのも不満が残るから、少し捻る。最後はとりあえずアンハッピーを予定する。登場人物みな死ぬことにする。
これは非常に楽しいことだ。
自分を完全に満足させるには、自分でストーリーを紡ぐしか方法はないのだ。

***

 

それはともかく想像力が、他人と最も妥協を嫌うジャンルはポルノグラフィだと思う。
セクシャリティは人によって違うものだから、他人の性的ファンタジーをいくら覗いても満足は得られない。と思うのだ。

私が読んだ数少ないポルノ小説で、「O嬢の物語」というのがある。
ポルノというよりも、エロティック文学とでも言うのだろうか。ともあれポルノの古典とされている小説で、澁澤龍彦の格調高い訳文が有名であり、格調高い物語が展開する。

しかしいくら格調は高くても、話は単にSMである。
女があれよあれよという間にSMの調教(!)を受け、やがてその快感に目覚めるという、まあポルノの王道と言ってもいい話である。

ではあるが、この格調高い訳文がいかにエロティックであるかは、読めば分かる。

おそらく、普通の男性作家が、
「彼女のアソコはぐしょぐしょに濡れていた」などと書いても全然エロティックでもなんでもないが、「O嬢」の、
「Oは男の器官で撫で上げられ」とかいう無機的な文章の方がずっとこの、情動的であるというのは、ポルノ小説を書く時の、一つの指針となるのではないかとさえ思う。

 

というわけで、「O嬢の物語」の文章、とりわけて澁澤訳は大変すぐれているのだが、いかんせんキャラクターがよくない。

途中でステファン卿というのが登場するのだが、卿というからにはどこかの土地持ちの、無職の金持ちなのだろう(これだけで、かなり反発を感じる)。
この男が、ずいぶん気取っているくせに実は単なるすけべのエロおやじ、としか思えないのが決定的に痛い。

O嬢は最初、ルネという恋人がいるが、このルネがO嬢を「愛しながらも」自分の叔父(?)のステファン卿に譲る。というか共有する。
O嬢はやがてステファン卿を愛するようになる…という展開なのだが、なんでこのエロおやじに愛を感じるかな、としか思えない。

エロおやじ…いやステファン卿はO嬢に全く興味を示さない振りをしつつ、彼女に「欲望を抱いていない時でも」彼女の陰毛をいじりたおすのが趣味なのだ。
「あなたは僕の見ている前でまだ一度も他の男に抱かれたことがありませんね」などともったいをつけて言う。
単なるデバガメのくせにと思わず突っ込みたくなる。

そのくせO嬢は、「自分に誇りを感じるのは、ステファン卿が多分自分を愛している、愛しているに違いない、と思うからであった」

どうやらこのステファン卿は男にとって非常に都合のよい設定のキャラクターなのだという気がする。
単なるエロおやじならまだ可愛げもあるかもしれないが、エロのくせに気取っている、或いは威張っている、というのが反感を買う、決定的な点であろう。

女は(いや、私はか)こんなエロおやじを金輪際愛したりしないぞ。(私はこういう男を蹴り倒したくなるのだ)
なんて都合のいい展開なのだ、と憤慨する。こういう時、他人のファンタジーは決して共有出来ないものなのだ、と私は感じる。

「O嬢の物語」はかなり出来の良い物語ではあるが、それでもこのような、決定的な欠陥があるのだ。ヌキどころもたくさんあるのに惜しい。


どうも下品ですいません。「O嬢の物語」について知りたい方はこちら

 

6/11 続・捨ててはいけない 「買わない技術」?

先月(5月)で展開した「捨ててはいけない」論の続編である。
詳しくは先月の日記参照

 

***

 

「捨てる技術」の作者は、立花隆によると、新しいものを買うために古いものを捨てろ、という思想なのだという。

もしそれが、立花氏の言っているとおり事実であるとするならば、私は、この作者の思想を断固として拒否する。

要するに、「捨てる技術」の作者は、消費主義に乗っ取った、消費社会の流通を奨励する思想である。

捨てないで取っておいたら、家が満杯になり、新しいものを置く場所がない。
そうしたら新しいものが買えない。それはまずいから(欲求不満に陥るから)、古いものはどんどん捨てて新しいものをどんどん買いましょう。そして捨ててまた買い、捨てては買いしましょう。
ということであるらしい。

不景気の世の中で、買い控えなどが盛んになっている今、ものをどんどん買え、という思想はある意味、必要なのかもしれない。
だが、「買うために捨てる」という思想は本末転倒である。

 

いらないものは買わない。
いらないものを買うから捨てなければならないのだ。

また、すぐに捨てても差し支えのないものならば、買わない方がましだ。

今家にそのものがあるのならば、必要でなくなるまでは、それを使うべきだ。
使えるうちは、新しいものに買い換える必要はさらになかろう。

そうして必要な物だけを買うべきだ。必要なものは買えばよい。
必要だから買うのである。

 

欲しいと思うものがあっても、まず家の中をぐるりと見回して、代替がきくものがないかと探し、あくまで買うという行為にクッションを置くべきだ。

本当に買わなければいけないものなのか、買う前にじっくりと検討しなければならない。
今すぐ必要なのか、必要になるかもしれないから買うのか、
もしいつか必要になるかもしれないから、というのであれば、買ってはいけない。

 

物を買うということは、非常な決心を伴わなければならない。

物を買う、ものを所有するということは、そのものとどこまで付き合うことが出来るのか、とまず問うことから始めなくてはならない。

ものを持つということは、そのものと一生付き合う決心が必要である。
一生涯付き合っていける、と判断したもののみ、買うべきなのである。

ものは、その人のものになるまでは単に物質である。
しかし、誰かのものになった時から、そのものには魂が宿る。

霊魂や、心霊写真を信じながら、ものに魂はないなどと言うことは許されない。

人は、自分の所有物には最後まで責任を持たなくてはならない。
その人がものを所有した時から、その責任は生じるのである。

製造者責任があるように、買者責任である(造語)。

責任の生じたもののことを、私は、魂が宿った物体だと見なすのだ。

 

ものとどこまで付き合って行けるのか。そのものと一生添い遂げる覚悟はあるのか。

その覚悟が出来て初めて、人は物を買うことが出来る。
そうでなければ、ものを買ってはいけない。

 

この消費社会で、ものはあまりにも軽く扱われすぎている。
そのために、「捨てる技術」などという、誤った認識の本が売れたりするのだろう。
ものは、そんなに軽く買ったり捨てたりするものではない。

一度何かを買ったら、買ったということ、その重み、そのものに対する責任を考えてみよう。
そうすれば、「捨てる技術」などという愚かな考えは全く無用のものだということが理解できるだろう。

 

(現在文庫本で「捨てる技術」が出ている。買わないように。)

03/6     TOP/HOME



2style.net