5/8 中途半端に古い建物は保存すべきか
5/23 「捨てない」技術!― 捨ててはいけない!?
5/23 「捨てない」技術!― 捨ててはいけない!?
立花隆の「僕が読んだ面白い本・ダメな本 そして 僕の大量読書術・驚異の速読術」という長い、自慢げなタイトルの文庫本を買った。
この本は、大雑把に言うと立花隆による書評だ。種々雑多な、膨大な量の本を紹介している。立花隆の本*を読んだことは殆どない。それはともかく、この本の最後に、『「捨てる」技術』を一刀両断する、という項目があり、一章を割いて特別にこの本をまさに一刀両断のもとに切り捨てている。
今回はこの話。
*立花隆についてはいずれ
『「捨てる」技術』というのは、以前ベストセラーになった、余計なものを捨てられないで困っている人たちに捨てる決心をさせた(?)という話題の本。
私はベストセラーは買わない、という主義と、クズ本は買わないという主義とによって、この本は買わなかった。でも、内容は気になっていた。
だから、立花隆氏の文庫本によって、「捨てる技術」という本の内容を知ることが出来たのは、とてもありがたかった。
あの本を買わなくても、内容をかいつまんで説明してくれているので、殆ど読んだも同然というわけだ。***
私は、おそらく、コレクターの殆どの人がそうであるように、「捨てない主義」だ。
「捨てる技術」なんて、とんでもない。「捨てない技術」という本を書きたいくらいだ。
貯め込むことは大好きだ。
貯め込まなくて、何がコレクターか。というくらいだから、「捨てる技術」という本は、私の敵ではないのかと漠然と思っていた。
しかし内容が分からないから、今まではっきりとそうは言い切れなかった。
それでもあの本がベストセラーになった時にとても気になったのは、そうは言っても余分なものは捨てたい。ものがあまりにも沢山ありすぎてどうにかならないものかという悩みも抱えており、家に迷惑をかけているという負い目もあり、捨てられるものは捨てたいという健気な気持ちがあったからだろう。しかし、立花隆の紹介を読んで、はっきりとこれが私の敵であることを今回認識した。
立花隆は、知的な職業に携わっていて、蓄積したデータがその職業の最大の武器であるから、済んだ仕事の資料はどんどん捨てろ、と提唱する「捨てる技術」の作者(女性だそうだ!)の思想とは相容れない。
そんなことをしたら自分の仕事が立ち行かなくなるとばかりに、著者を責めまくる。私は、それとは別の所で、「捨てる技術」には真反対だ。
***
話があまりにも広範になるので、例えば本に限る。
私はクズ本は買わない、と言ったけれど、これは内容がクズだというより、読んだあとはクズとして処分するしかない本、と言うほどの意味である。
だから私は週刊誌は買わない。女性週刊誌も、普通の週刊誌も買わない。読みたくなったらもちろん立ち読みである。
まれにどうしても欲しくなって買ったら、たとえ女性週刊誌でも、それは捨てないで取っておく。
おそらく、私が死ぬまで手元にあるだろう。私は、読んだあと捨てても構わない、と思うような本は買わないのだ。
(だからベストセラーには手を出さない)
だから、一旦買えば残す。決して捨てない。なぜなら、それは持っていることが価値だからだ。
読んだ後でも、持っていることに価値のある本。そういうのを選りすぐって買う。
私が買いたいと思う本は、即ち一生涯家に残しておきたい本なのだ。
そして、残しておくだけの価値があるかどうか。それが本を買う時の基準になる。
一度読めば、確かに再読する本は少ない。
しかし、二度と読まないだろう本でも、本棚に並べた背表紙を見て、自分の家にこの本があるということをしみじみと喜び、どうだ、私はこんな本を持っているのだぞと、自分の趣味の良さに一人で悦にいる。
それだけのために、本を捨てないのだ。その結果、たちまち本棚は満杯となり、そこここに溢れる結果となる。
しかし、コレクターはそれを恐れない。
買った本で足の踏み場もなくなることを無上の喜びとする。
好きなものと一生を添い遂げたい、と思うことは、すでに整理を拒否することである。
すっきりした生活とは無縁でいることを覚悟しなければならない。
そのことを踏まえていれば、決して「捨てなければならない」などという強迫観念に襲われることはないだろう。私は、であるから「捨てない技術」を推奨するのだ。
「捨てなければならない」という強迫観念に襲われながら日々、暮らすのは精神衛生上とても不愉快なものだ。
いつか「〜しなければならない」と考えることでストレスを溜め込むことほど、愚かなことはない。今度捨てるから、いつか捨てるから
などと言い訳を考えるのもストレスを溜めるだけの愚かな行為だ。「捨てなくてもいいのだ」
「持っていてもいいのだ」と私は提唱する。
捨てたくないなら捨てなければいい。
これだけのことだ。実にシンプルな主張だ。
捨てたいならば捨てればいいのだ。捨てるものがあるなら捨てればいい。無用になったもの、自分にとって価値がなくなったものならば、どんどん捨てるべきだろう。
ここで言っているのはそういうことではなく、まだ自分にとっては必要だが、場所がないため無理に捨てようとか、自分にとっては価値があるが、人(同居人)にとっては無価値だから、捨てろと命令される、などの場合のことを言っている。
そして、さらに、これらのことを徹底するために、今、もうひとつの技術を持たなくてはならない。
それは、「買わない技術」である。
≪つづく≫
「捨てる技術」という本は、記載したとおり読んでいません。すべて立花隆氏の本からの孫引きなので、的外れでしたらばそのようにご指摘下さい。
また、立花氏によると、「捨てる技術」の作者は、夫の所持品を捨てたことで、捨てる快感に目覚めたという。人のものだからいくら捨てても惜しくないのだ、と立花氏は糾弾しているが、そのとおりだ。
5/8 中途半端に古い建物は保存すべきか
滋賀県の豊郷小学校の建物の存続について話題となり、町長のリコールや市議選など今も問題が続いているようだ。
かの町で何が問題となり、何で揉めているのか、寡聞にして私は良く知らない。
選挙の結果を見れば、単に建物を新しくするか、文化財級の建物を保存するべきか、というだけの論議ではなさそうだ。私は単に建築的観点からしか見ることが出来ないが、古い建築というだけで建てかえるべしではなく、使えるものならば使ってもらいたい、というのが、古い建築に関して、それがより沢山ある京都に住む私の考えである。
豊郷小学校の実物を見たことがないので何とも言えないけれど、設計者ヴォーリズの建築ならば、京都の方が沢山ある。
ヴォーリズの建築は京都の誇りである。京都という、千年続く平安の都というだけでなく、明治モダンの実現都市にあって、ヴォーリズの建築は、京の町に多大の貢献をしていると思う。
ヴォーリズだけでなく、京都にはさまざまな明治期のモダン建築があり、その宝庫である。
それらは京の町に溶け込み、京都の町のこよなく美しいアクセントとして、町を彩ってくれている。
それらを取り壊せとは、京の市民は言わないだろう。
もちろん行政も、言わない。
それが観光都市京都のメインの売り物でもあるからだ。
古い建築に対して、耐震設計がどうのこうのという議論がある。
これらの京都の明治建築は、作られたのが明治であるからもちろん耐震設計など、現在の水準を満たしていないだろう。
満たしていないという理由で、明治に建てられた建物が取り壊されたという事例は京都にもある。
そこは確か銀行として現在も使われているので、中で仕事をしている人間が危険だというので取り壊されたようだ。
しかし、当時設計された建物のデザインがあまりにも良く、かつては名物建築であり、消滅させるには忍びないというので、跡地に新しく建てられた銀行は、明治に建てられたデザインと全く同じものにした。何でも煉瓦も前に建てられていたものを参考にして、忠実に再現して焼かれた由。
しかし、ヴォーリズ設計の東華菜館などは、今も中華料理店として営業している。もっともこれは、昭和初期に建てられたものだが。
ただ、東華菜館でも耐震設計という点では怪しいものだ。当然現在の水準を満たしていないだろう。それでも京都人は案じることなく、そこでご飯を食べたりするのだ。
古い建物を使うということは、何かあってもそこで建物と心中してよしという気構えがなくては出来ない。
京都人はみな、この心がけで文化財と生活を共にしているのだ。
京都でも古い建物はどんどん壊され、次々に新しく建て替えられている。
建て替える時には、古さの基準が問題となるのだろう。
中途半端に古いものが困る。
古いものなら、文句なく文化財として保存という方向になるだろう。
新しいものなら、つい10年くらい前に建てられたが、経営が破綻し、建物を他の業者に譲ったなどという、そんな建物ならばどれだけ建て替えても文句は言われない。明治に建てられ、しかも現在も仕事場として使われている建物は、耐震設計上危ない、ということで建て替えられる方向にあるのかもしれない。
地震の多い日本とは同等に語れないかもしれないが、ヨーロッパでは、何百年も前の建物を今でも平気で使っており、なかんずくそこに人が住んでいる。
よっぽどでないと、建て替えないという風潮があるのではないか。
どころか、スペインのサクラダ・ファミリア教会など、100年以上にわたって建て続けているのだ。
日本ならその間に3回くらいは建てて壊しているだろう。日本も、無闇に建て替えて木材や資源を無駄使いすることもあるまいと思うのだが。