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2/7  スクランブル交差点のとおりゃんせ
2/14 虹のかなたにの困ったCM
2/20 本屋でつけてくれる文庫カバーについて
(2/27 買い物でのちょっとしたトラブルについて

2/20 本屋でつけてくれる文庫カバーについて

以前、いつだったかこの日記でレジ係が「〜からお預かりします」と言うのはおかしいという発言をしたことがあった。
最近は買い物をしても「〜から」に会うことがめっきりなくなった。

おおかたネットで「から騒動」が盛り上がり、おかしいという判定が広まったので、接客業関係では接客マニュアルを変えざるを得なかったのではないか。
誰が始めたのかしらないが、みょうちきりんな、日本語になっていない日本語だったのだからそれも当然だ。
何にしても「から」が駆逐されたのは結構なことだ。すっきりした。

 

最近感じたのは、本屋のカバーについてである。

私はよく本屋へ行き本を買う。
それもたいてい文庫だ。
文庫が好きなのは安くて小さいからだ。(最近は安くなくなったが)

そして、文庫を買うとレジ係がカバー(紙製)をつけてくれる。

昔、文庫のカバーは必須だった。
カバーでどの本屋で買ったかが分かったし、何とも思わないでカバーをつけてもらっていた。
というよりも私はカバー好きで、カバーをかけてもらうのが文庫を買う時の何よりの楽しみだったのだ。

しかし最近はエコロジー、省エネでなるべくならばそんな無駄な紙は使わないにこしたことはない、という風潮になって来た。
異論はない。
どうせ読み終われば捨てる紙だ。

だから近年では私もなるべくカバーをかけてもらわず、裸で買うように心がけている。

本屋にもよるが、レジ係は「カバーをおつけしますか」と訊く。
私のよく行く某デパートのA書店では必ず訊く。

訊かれないとカバーをかけてもらう。
しかしあえて訊かれるといらないと言う。

だからその時もいらないと答えた。
すると店員は嬉しそうに「ありがとうございます」と言う。

省エネに協力してくれて感謝しているのだろう、だから礼を言うのだろうと漠然と考えた。

しかし、そのあと店員は文庫本をその本屋の大きなビニール袋に入れた。

何だ。
カバーはかけない代わりにビニール袋に入れるのか。結局一緒じゃないか。
と私は不審に思った。
資源を使うことからすれば同じ分量を使っているではないか。
あのありがとうございますは何だ。

しかし、考えてみるとカバーをかけない文庫を裸でもらっても、万引きしたのと区別がつかない。
やはり売ったという証拠に何らかの処置はしなくてはならないだろう。

ただ、カバーとビニール袋では良く分らないが紙製のカバーの方が省エネなのではないか。
紙の方が土に返りやすい。
いずれにしても大して変わらない。

私は今度から堂々とカバーをかけてもらおうと思った。

 

それからしばらくして再びKデパートのA書店に行き、文庫を買った。
店員がカバーをおつけしますかと訊く。
私はここぞとばかり、つけて下さいと叫んだ。

すると店員は、なんとしたことか、カバーをつけたあとその文庫をビニール袋に入れたのだ。

私が財布のお金を探している間の出来事だったので、袋はいらないという間もなくその行為は完了していた。
おいおい。

いったいどう言えばいいのか。
普通カバーをつけたら袋はいらないだろう。
文庫を2冊も3冊も買っているわけではない。

文庫を2冊以上買ったなら、カバーをかけないで袋に入れるのが資源節約のためには理にかなっているだろう。
1冊だけ買った場合にはカバーでいい。カバーだけでいいのだ。

こんなことくらい、店員は分からないのだろうか。

 

カバーをかけるかどうか訊いて、いらないと客が答えたらありがとうと答える、という態度は、省エネに協力してくれてありがたいという意味ではないのか。

日頃そのように省エネを心がけているのならば、客がカバーをくれと言ったときにはカバーだけにして袋を省略する、というのが省エネに見合った自然な態度であろう。
省エネに気を使っている人間の態度として、自然に出て来るはずである。

 

省エネという意味が分かっているからカバーはいらないというと喜ぶのだと私は思っていたが、ちっとも分かっていない。

頭ではちっとも分かっていないで、店長から言われたからそのように応対しているだけというのがバレバレだ。
というか、「カバーをつけたら無駄」「カバーをつけなかったら省エネ」と、そのことしか頭にインプットされていない。自分で考えるということをしていない。
そのことが頭に来るのだ。

どういうことをすれば省エネになるのかという根本を何も考えずに、ただ「カバーをつけるかつけないか」だけで判断している。
で、いらないと言った客をありがたがる。
要ると言った客をフンという態度で見る。
最近の若者の頭は本当に悪くなっているのか。

それと、過剰包装さえすればそれで丁寧に接している、それでサービスを行なっている、と考えるサービス業の思い込みも問題である。

 

2/14 虹のかなたにの困ったCM

註)

この日記は私が好き勝手なことを書いている。今回のことも口汚い悪口なのではないかとも思ったが、インターネット上で好き勝手が書けるのが楽しくて書いているので、それで言わばストレスを解消しているのだから、悪口かもしれないこともどんどん書くことにした。

 

最近テレビのコマーシャルで「虹のかなたに」をよく聞く。
というより、二つのCMで「虹のかなたに」が流れている。*1
何のコマーシャルだったかは覚えていない。
周知のように「虹のかなたに」は、「オズの魔法使い」というMGMのミュージカルでジュディ・ガーランドが歌った主題歌だ。

歌に人それぞれの好ききらいがあるのかどうか私には分からないが、私自身は歌の好き嫌いがとても激しい方だ。

好きな歌はとことん好きだが、嫌いな歌はとことん嫌い。
何においても好悪感情が激しいので、歌にも好ききらいが激しい。
なぜこんなに好ききらいが激しいのか、自分でも呆れるくらいに激しいのだ。

 

私には、CMの「虹のかなたに」の歌い方がとても気に障る。
ひとつはジャジーなムードを出そうとして、だるいような歌い方(?)をしている。
もうひとつは沖縄民謡風にちりめんビブラートをきかせて歌っている。

このジャジーなムードの方の歌い方は、何だか人を小馬鹿にしたような…というか、なめたような歌い方なのできらいだ。

ジャズっぽくという志しは分かるのだが、だからといってあまりだるい歌い方をすれば単に人をなめたような歌い方にしかならない。
これがジャズを歌う時のむつかしさだ。
ジャズを歌うなら、もっと歌いこんだシンガーでないと駄目なのだろう。*2

しかしこちらはまだましかもしれない。
もうひとつの歌い方のほうが私には我慢出来ないくらい、気に障るのだ。

 

去年の夏に、突然沖縄民謡風の歌が流行った。
もしかしたら、あれを歌っていた歌手が歌っているのかもしれない。

しかし、私はあの沖縄風の歌い方が大嫌いで、なぜこのような気に障る歌が流行るのだろうと聞くたびに気分が悪かった。

あのちりめんビブラートを聞くと拒絶反応が起きるのだ。
(沖縄の歌を否定しているのではない。単に個人的にきらいだと言っているだけである)

そういえば、私はヤイコとか、ヤイダとかいう女性歌手も大の苦手で、あの歌い方には虫唾が走る。

これはもう悪口とかいうのでなくて、自分の生理なのだから仕方がない。
私の身体の中に、ああいう歌い方を拒否するDNAが組み込まれているのだ。

それで、あの沖縄風ちりめん声がどうも苦手で、CMで否応無しに聞こえてくると耳を塞ぎたくなってくる。

しかも、「虹のかなたに」は、

Somewhere over the rainbow way up high

と歌うはずなのに、somewhere が、その歌手ではsomewayにしか聞こえない。

あまり自分の歌い方に固執しすぎるとろくなことがない。
歌の気持ち、歌詞の内容をふまえて歌わないと聞く人にきちんと聞いてもらえないのではないだろうか。
しかしCMの音楽は聴きたくなくても耳に入って来るのが困る。

*1 もうひとつ、男性歌手が歌っているCMもあった。
CM業界はよほど「虹のかなたに」が好きらしい。

*2 このだるい歌を歌っているのは何とユーミンだとテロップに出た。
それを知ったあとで「歌いこんだシンガーでないと」という部分を削除しようかと思ったが、面白くなくなるのでやめた。

*

もうひとつコマーシャルで相変わらずよく使われているビートルズの歌について。

最近公文式のCMで「ハローグッドバイ」が使われている。
(演奏は別人)
若い人はもうこれがビートルズの歌だということさえ知らない人もいるに違いない。
実に寒々しい世の中だが、しょうがない。

ビートルズの歌は、本当によくCMに出て来る。
擬似ビートルズという感じの歌もよく耳にする。

「ハローグッドバイ」は曲の発売当時、コアなビートルズファンからけちょんけちょんに酷評された。

当時ビートルズは、史上有名な「サージェントペパーズ」というアルバムを発表し、シングル「愛こそはすべて」では変拍子を使うなど、革新的なアイディアの曲造りをしていた。
それがいきなり「ハローグッドバイ」。

歌詞はハローとかグッドバイとか、ばかみたいな歌詞。しかもそれをリフレインするのみ。
期待していたファンをがっかりさせた。

しかし、ポールはこういう曲調をかなり多作している。
「When I'm 64」とか、「オブラディ・オブラダ」とか皆同じ系列だと思う。ポールの典型として、今は「ハロー…」はもっと評価されてもいいような気がする。
イントロがなく、いきなり歌い始めるのも斬新だ。
ポールにはイントロなしの曲もわりとあった(「オーダーリン」など)。

ビートルズの曲について語ると際限がなくなる。この辺でやめよう。

 

2/7 スクランブル交差点のとおりゃんせ

驚いた事に、京都にもスクランブル交差点がある。
あのようなものがあるのは大都会だけだろうと思っていたので大変驚いた。

あのスクランブル交差点は、待てども待てどもなかなか青にならないのできらいだ。
年寄りはどのようにして渡っていいのか分からないらしく戸惑う人が多いという。
このように不便を感じている人もいるというのに、それらを差し引いてもなお簡便であるからああいうのが作られるのだろうか。

しかも渡る時に「とおりゃんせとおりゃんせ」のメロディが流れる。
全国一律で、「とおりゃんせ」が流れるのだろうか。
それがかねてよりの私の疑問なのだ。

大阪の交差点でもとおりゃんせが流れるところがある。
してみると、わりと普及しているのかもしれない。

気持ちは分かるのだ。

交差点で待っていて青になり、進んでください、だからとおりゃんせとおりゃんせという訳なのだろう。
しかし、気持ちは分かるがメロディがいかにもマイナーだ。

いざ歩こう、という時にあのいかにもマイナーな、くらい、哀愁を帯びたわらべ歌のメロディが流れると、どうしても気勢をそがれる。
俯いて、下を向きつつとぼとぼと歩いてしまう。

これも私がかねてより思っている事なのだが、どうせなら横断歩道を渡る時のメロディは行進曲などの威勢のいい曲に出来ないものか。

「ラデツキー行進曲」などが流れてきたら、いきおい手を大きく振って、元気よく歩けるのではないか。
チャララン、チャララン、チャラランランランと思わず曲に会わせて皆が手を振って行進し始める。楽しいではないか。

このように人は音楽によって気分を大きく左右されるものだ。
短調のメロディは、どうしても気分をふさがせてしまうのだ。

しかしとおりゃんせのメロディが流れると、心の中でいつの間にか一緒に口ずさんでしまっているのは私だけではあるまい。
しかも、歌がフルコーラス終わらないうちに横断歩道を渡りきってしまう。
そして信号が黄色に変わってしまい、鳴っていたメロディもぷつんと終わってしまう。

スクランブル交差点の横断歩道を渡るたびに最後までメロディが聞けず、フラストレーションがたまってしまうのも、私だけではあるまい。

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