Doll Maniacs

Opinion

ボークスってどうよ
京都ブランドとして考えてみる

05/6/19

ボークスは、京都市右京区に天使の里というのを作り、会員のみに限定公開している。
そこは、もと竹内栖鳳の別荘で、霞中庵と言った。

京都で言えば「愛染倉」とか「しょうざん」の真似をしているのかとつい思ってしまう。

京都の名所が数あるうち、しょうざん、と名がついただけで、行きたいと思うだろうか。
いくらいい庭やいい花があろうと、企業の名がついただけでうんざりするのではないか。

企業が京都の名所を買うのも良いかもしれないが、企業が買った途端、名所が名所でなくなる。そんな気がするのは私だけだろうか。

もちろん京都には大河内山荘とか大山崎山荘など、個人の別邸を公開しているところは沢山ある。
もともと、竹内栖鳳邸もそうだった。けれどもそこを企業が買った。
そして縁もゆかりもない人形の里であるということにしてしまった。

これは、庭園が好きな人と、人形の好きな人、双方にとっての迷惑、そして不幸ではなかっただろうか。

 

企業がそこを保存して、のちの世に伝えていく、と言い張ったとしても、そのことはこの際どうでもよい。
企業のものになるくらいなら、荒れ果て、なくなってしまった方が邸にとってよいのではないか。そんなふうにさえ思ったりする。

庭や、竹内栖鳳の画は、ボークスの人形とは何の関連もない。そんな何の関連もない企業が栖鳳邸を買っても、金銭的には問題がなくても、道義的にどうかと思う。
企業のエゴイズムと言われても、しようがない。

 

ボークスは京都の会社である。だから「京都」に拘ったのだろう。

ボークスの人形のパーツは京都で生産されているという。だから、大量生産ではないので値段がおのずと高い。それはそれでいいとしよう。

だからボークスは、京都の企業として、京都らしさをアピールする道を選んだのだろう。
そして、スーパードルフィーが、京都産であることを強調するかのように京都に「天使の里」を作った。

京都産以外の京野菜が出回っていることを憂えて、京野菜に京都ブランドを冠し、ほかの生産品と差別化しようという動きと同じようにも思える。

 

京都製の商品の多くがそうであるように、京都の商品は、京都以外の人々にこそ人気がある。

京都の人間は、代々並ぶことを嫌う。その意味では、スーパードルフィーのように並ばなくては買えない商品には本来手を出さない。
SDを買うのは、並んで買いたい、並ぶことがステータスであるかのように考えられている都市でこそ売れる。

だから京都では、SDおよびボークスは人気がないと私は思っている。「天使の里」以外に、長岡京市にショールームがあるが、そこのさびれ具合を見てそう思うのだが。
(もっとも長岡京は田舎なのでモダンなものに食いつかないということもあるかもしれない)

 

ボークスはまた、祇園ツジリ(辻利・都路里)のような商法を狙っているのかもしれない。

京都に本店があるが、東京にアンテナショップを作り、そこが京都本店より10倍ほど稼ぐ。(東京の方が人口がそれだけ多いからである。)

けれども、東京で稼ぐからと言って、本店は京都であり、京都製ということにホコリを持って営業しているのだ、というポーズを崩さない。

ただ、京都の都路里に来る客は、京都市民以外が圧倒的に多い。ガイドブックを見た観光客と、地方から出て来て京都の大学に通う女学生たちだ。

 

いずれにしても、京都の会社なのであるから、京都に拠点を置くのは無理もないだろう。

最近は京都だけでなく、地方のベンチャー企業は地元に拠点を置き、東京はすっ飛ばすと聞く。

世界を相手にグローバルに取引をしようという企業では、東京にワンクッション置くことなく、直接世界につながった方がメリットがある。

世界進出を狙うボークスには、世界から来る取引客を京都観光でもてなすことが出来るということは、東京に進出するよりもはるかにメリットなのだ。

 

ただ、ボークスの場合、その顧客が京都人以外の方がはるかに多いことが、問題だ。

京都にしか売っていないええもんがありまっせというのは、京都の伝統的な殿様商売だが、ボークスはそれをはき違えて使ってしまった。そう思う。

京都でしか売っていないものが欲しかったら京都に来い、という商売は、観光客に対しての商品でなら通用する。
けれどもスーパードルフィーは観光商品ではない。

人形を欲する人たちは、京都には何の関心もない。「天使の里」と名前が変わった「霞中庵」という庭にも何の関心もない。
スーパードルフィーは、その生まれたところが京都というだけであって、それは人形という商品には少しも関係はないし、メリットにはなっていない。

それを今、それを売り物にするということが正しかったかどうか。

 

ボークスはまた、タカラを真似たのだろうと思う。

タカラにはリカちゃんキャッスルがあり、そこでキャッスル限定商品を扱っている。

リカちゃんキャッスルは、何県だったかすぐには思い出せないような田舎にあり、小野小町の生まれた(?)小野町に工場があることをウリにしている。
そのような片田舎だからこそ(?)そこはジェニー系ドールを集める人にとっては聖地になったのである。

ボークスは、「天使の里」をリカちゃんキャッスルにしたかったのだろう。
京都をスーパードルフィーの聖地にしようと思った。

そのために京都という土地の知名度と、京都の持つイメージを使おうとした。

 

ボークスが、京都を尊重しており、京都が素晴らしい土地であるから、人形の好きな人にも京都のことを知ってもらい、京都に来てもらいたい、というような希望があって、京都イメージを使うことにしたのなら、それはそれで(京都の者にしてみれば)歓迎すべきことなのかも知れない。

けれどもその結果、人形と京都という関連のないものを無理にこじつけたような違和感を与えてしまったのは、どちらのイメージをも損なったということにはならないか。

しかも人形を売るのに、京都イメージを啓蒙してみても無駄だろう。
(外国人にはいいかもしれない。すべては外国向けのアピールであるのかもしれない。)

 

またボークスが、これからも列に並んで買わせる商法を続けるのなら、京都には必要がないとも言える。
大量生産が出来ないのなら、「儲ける」ことを目的としないのが一番だ。と思うが如何。

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