Doll Maniacs

Opinion

コレクターの呟き

05/3/13

最近、ようやっとお人形に対する執着がなくなって来たような気がする。
それはまあ、近頃のバービーにあまり欲しいものがない、ということも影響しているのかもしれないが。

それでも今まで溜めに溜め込んで来た人形を、これまでなら絶対に手放したくないと思っていたのに、これはもういらないや、これも手放してもいいか…という風に思い始めている。
ただいかんせん、バービーは今売れないので、アクションをしないだけである。

ひと通り持っているから値打ちになる(シリーズのコンプリという奴)というのはあるだろう。
でも、そういうものを一体でも手放すと、価値がなくなる。
だからすべてを手放してしまってももう惜しくないという考えになるのだ。

自分はもういらないけれども、持っていれば値打ちになるかもしれない、というのはある。
もし、手放さずに持ちつづけていたら、きっとそれは値打ちが出て来るに違いない。今が我慢のしどきかもしれないとも思う。

けれども、持っていてどうする。個人で持っていても、どうにもならない。
将来、博物館でも開くというのなら持っていて値打ちもあるだろうが。

そう考えると、博物館など出来やしないのだから、持っていてもしょうがない。とマイナス思考になる。

 

もちろん値打ちがある、値打ちが出るかもしれない、だから持っている、という考えは元来、私にはなかった。が、人形を手放そうかという時には、手放す基準のひとつにはなる。

自分の好きなものは手放さない。けれども好きの具合が微妙な人形がある。

自分の好みが変わって、これはどうか、と思う人形が出て来る。
そうした時に、いざ手放すか、持っておくか。その基準に相対的な「値打ち」というものが、頭をもたげて来るのだ。

*

コレクターたるものは、およそ個人の博物館を持ちたい、というのが、その最大の夢なのではないだろうか。
どんなものをコレクションしているにせよ、どのコレクターでも一度は夢想することではないか。

けれども、実際に博物館を持てたコレクターは、そんなに多い数ではないだろう。持てなくて切歯扼腕、悔しい思いをしているコレクターの数の方がはるかに多いと思う。

私よりはるかに沢山の人形を所有している人でも、博物館を作ったという人を知らない。ちょっとやそっとでは出来ないのだ。
財力やコネクション、恥を捨てる覚悟(?)、いろんな要素がすべて上手く運び、それを成し遂げることの出来た人だけが、持つことが出来る。
つまり、ほとんどの中途半端なコレクターは、博物館を持つことなど出来ないということだ。

それなら、もう、人形をいくら沢山持っていてもしょうがないという考えになる。
もちろん、博物館を作るために集めているのではない。

けれども、集まってしまうと、それをとにかく押入れの中に置いておくのは勿体無い。沢山の人形をただ埋もれさせておくのがしのびない。どうにかしたい。
そういう欲望がもたげて来る。

せめて、全部の人形を鳥瞰出来るスペースが欲しい、と望む。
それには自分の狭い家だけではとても足りない。だから、広く、系統立てて保管出来る場所が欲しい、という考えになってしまうのだ。

だが現実にはそのような広い土地はなく、したがって、自分の集めた人形を飾っておくことすら出来ず、どこに何があるかを把握することも出来ず、そのほとんどが物置や、押入れの中に深く眠っているだけ、だとすれば、それはもう殆ど自分が所有していないと同じことだ。

見ることが出来ないものを所有している、ということほど虚しいことはない。
まるで高松塚古墳のようだ。
いつそれがねずみに食われ、朽ちているかを知ることすら出来ない。再び相まみえた時には、いつの間にか形のないものに変わり果てているかもしれないのだ。

見ることが出来ないのなら、所有していてもしようがない。
自分が持っていても、持っていないと同じ状態なのなら、いっそ売って、次に欲しい人形を買う資金にしたい。

中途半端なコレクターほど虚しい、悲しい存在はこの世にはないだろう。

いっそ完全にリセット出来たなら、どんなにすっきりするだろう。PCのようにリセットして新たに再起動出来たら気持ちがいいだろう。
けれども気の弱さと、思い切りの悪さでそのようなことはとうてい出来そうもない。

*

もともと、どうして人形を集めたりしだしたのだろう。どうしてコレクターなどという、やくざな身分に堕ちてしまったのであろうか。

コレクターなどになりたくはなかった。

そのようなお馬鹿な人間になるはずではなかった。
ただ人形が好きで、次から次に買っているうちに人形が押入れに溜まり、いつの間にか増え、数え切れないほど沢山になり、持て余すほどになったというに過ぎない。

しかも貧乏なせいで、徹底して片っ端から買ったわけではないから、いかにも中途半端なコレクションだ。
まだどれかを系統立てて集めたというのであれば値打ちもあるかもしれない。
だが、インスピレーションと財布の相談をしながら集めたものに過ぎないから、人に公開する値打ちもない。

 

そもそもなぜ次から次に買うようになったのか。
殆ど自分に腹を立てながら、この設問をする。

あれも欲しい、これも欲しい、見れば欲しい。そういう欲望が押え切れなかった。
物欲であろうか、所有欲であろうか、それとも収集欲であろうか。

人間には、あらかじめこの第三の欲望が備わっているのではないか。そう思えるほどに、私はこの欲望に勝てなかった。

おそらく、その他の欲望に対しては淡白で、その他のことに対してはさほど欲望を持たないため、私の中の欲望が、所有欲に集中したのだろう。
人形には自分の小遣いでも買える、という金銭上の身近感があったため、この欲望に拍車がかかったと思われる。

ともあれ、こんなことをいくら分析してみてもしようがない。

コレクターは、自己の所有欲と永遠に戦い続けなければならない宿命を持つ。コレクターとは自己の煩悩とつねに向き合わねばならず、苦悩に身を引き裂かれ続ける、永遠のプロメテウスなのだ。

私はこの煩悩から脱却したい。

少しずつ所有品を手放すことによって、徐々に煩悩から遠ざかろうと思う。

手放すことは、身を切られるような苦痛である。しかしそれも修行である。

 

これらの言葉は最初に言ったことと矛盾するような発言である。
自分でもどう整合性を持たせようかと今、苦慮している。

自分が今、これはもういらないや、これも手放してもいいか…という風に思い始めているのは、修行のおかげである。
精神の修行である。

人形への執着をいかにして減らすか。

それが、コレクターである私の命題であった。

手放すことは苦痛である。だからこそ、その苦痛を、いかに減らすか。
人形への涌き上がる感情を押え、人形を見ても平静な心でいること。

それを実現するためには、たゆまぬ努力と、精進が必要なのである。それが今、ようやく自分のものとなりつつある、ということなのであろうか。

 

***

 

売るくらいなら買わなければいいのに、と言う人間がいる。

その言葉はあまりにも青い。

いつか売らなければならないのに買いたいという気持ちが押えられない、この苦痛が分からないのかキサマ。

この項終わり

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