ジーザス・クライスト・スーパースター
Jesus Christ Superstar
07/6/5
1974年 アメリカ映画
監督 ノーマン・ジュイソン
主演 テッド・ニーリー カール・アンダースン イボンヌ・エリマン
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この作品はロック・オペラと呼ばれているもので、ミュージカルのようなセリフは一切なく、すべてが歌曲だけで進行してゆく。
ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーという、有名なブロードウェイチームの最初の作品となった、記念すべき一本だ。
もともとはこれは、ロック・アルバムとして計画された。
ロック界で有名なシンガーを起用して(イエス役はディープ・パープルのボーカリスト、イアン・ギランだった)、2枚組くらいのアルバムとして制作された。
それが評判となり、ロンドンの劇場でミュージカルとして上演されることになり、次いでブロードウェイに進出、評判を呼んでブームを巻き起こしたのだった。
日本では劇団四季で上演されている(鹿賀丈史主演)。
この映画化はブロードウェイの舞台に基くアメリカ映画で、ユダが黒人というキャストが踏襲されている。
映画化に際して現地ロケをしており、イスラエルの荒涼とした砂漠や荒地が臨場感を与えているのが、映画ならではの素晴らしいオリジナリティである。
映画が日本で公開される時、題名になぜイエス・キリストではなく、わざわざ一般的ではないジーザス・クライストという英語名を使うのかが、とても疑問だった。
おそらく配給会社は、イエス・キリストという題名をつけると宗教くさくなり、若者に敬遠されるとでも思ったのだろう。
基本的にはロックミュージックが満載の、美しい音楽を楽しめる映画だからでもあろう。
題材は言う間でもなくイエスの最後の7日間である。
新約聖書の中でも最もアクティブで事件が満載のくだりであり、欧米の者なら誰でも知らない者はいない、有名すぎる場面である。
それをミュージカルにする、ロックの音楽にする。なかんずく、イエスがまるで長髪のヒッピーの如く、ユダは黒人ソウル歌手のよう、マグダラのマリアに至ってはグルーピーそのものである。
こういうセンセーショナルな設定だったので、キリスト教関係からかなり批判されたようだが、それさえも話題となりますます有名になっていったのが、ブロードウェイの舞台版だ。
「ジーザス・クライスト・スーパースター」がセンセーショナルだったのは、キリストをロックの人気歌手に見立て、キリストと弟子たちの説教の旅を、人気歌手の興業巡業に見立てていたことにもよるだろう。
ユダは、実際にイエスの集団の中で財布を預かったお金係とされている(聖書による)が、ここではまるでイエスのマネージャーのような感じになっている。
しかしストーリーの根幹にあるのは、「誰もが片思い」ということだろう。
マグダラのマリアのイエスへの片思い、ユダのイエスへの片思い、イエスの神への片思い…。
イエスはまるで人気歌手のように、その説教によって人気が沸騰し、皆に愛される。彼の周りにはいつしか彼を慕う集団が出来て、イエスが移動する度にぞろぞろとついて歩く。
その中にマグダラのマリアもいる。
彼女の有名なアリア「私はイエスが分からない」は、
どのように彼を愛せばいいのだろう
なぜ彼が、こんなにも気になるのだろう
私には今まで沢山の男がいた 沢山の男と寝たわ
でも彼は誰ともまったく違う
叫べば良いのだろうか 甘い愛を語れば良いのだろうか
一体この気持ちは何なのだろう
彼はただの男 沢山の男の中の一人に過ぎないのに
なぜこんなにも彼を、私は愛しているのだろう…
こんなような意味の歌詞だ。切ない片思いを切々と綴った詞である。ライス=ウェーバーの名作のひとつだ。
ピラトという登場人物が出て来る。
イエスが掴まって、ローマ総督であるピラトの前に引きずり出される場面だ。もちろん聖書にも出て来る有名な場面である。
聖書でも、ピラトはイエスに刑を課すことをためらう。
ローマに対する反逆、という名目で掴まったが、イエスには罪はないのではないか、イスラエル人同士の宗教上の勢力争いの、とばっちりを受けているだけではないのかと。
彼ピラトは部外者なので、冷静に判断をしていたのだ。映画(ライス=ウェーバー版)では、ピラトは、それ以上のある種のシンパシーをイエスに持っているように描かれている。
イエスが掴まる前に、ある夢を見たと言ってピラトが自宅で独唱をする。その歌が、イエスがゲッセマネの園で歌う独唱とまったく同じメロディーなのだ。
つまり、二人の間に、何らかの呼応があるという風に作者が設定したのだろう。
まるでイエスを慈しむかのように、イエスが掴まって欲しくないというかのように、ピラトの歌は歌われる。
それは、ピラトがイエスをまるで愛しているかのように聞こえるのだ。
扇動された民衆は、イエスに刑罰を与えないと承知しない。そこでピラトは、イエスを民衆の前でムチ打ちの刑に処す(映画ではそのようになっている)。
ロックの激しいリズムに合わせてムチが打たれ、興奮した民衆はイエスに打たれるムチの数を数える。
はっきり言って、この場面はどんなサド・マゾ映画よりももっとも素晴らしく美しいムチ打ちの場面である。
むち打たれる度に苦痛に歪むイエスの顔。悶える肉体。はやす大衆。苦悩するピラト。
これほど扇情的な、エロティックなサディズム描写があるだろうか。
ピラトとイエスの裏表の関係も、この場面があることによって、いっそう妖しく感じられる。
ノーマン・ジュイソン(ユダヤ人)はいたって健全な監督だが、この場面は意外なほど上出来だ。
ユダは、イエスが人気者になって自分の手を離れてゆくのが気に入らない。
しかもイエスがパリサイ人や神殿に仕える祭司らの反感を買い、次第に立場を悪くしているのに過激さを改めず、エルサレムにやって来て、キレて暴れまわる場面を見るにいたって(エルサレムの宮きよめ)、ユダはイエスが自分を見失っているのではないかと考える。
そこで敵であるローマ兵にイエスを売って、目を覚ましてもらおうと考える。だが、ローマ兵の手に落ちたイエスは、いっさいの弁解をせず、黙って運命に甘んじる。
そのイエスの様子に激しく後悔したユダは、イエスが磔にされる直前に、みずからの首をくくるのだ。
磔の直前、ユダはイエスを売った見返りとしてもらった金貨30枚をばら撒き、大地に這いつくばり、声を振り絞って歌う。
あの人を、どのように愛すればいいのだろう
なぜこれほどにあの人は俺を揺すぶるのか
これは、マグダラのマリアの歌う独唱のメロディそのままである。歌詞もそのままだ。
ほんのワンフレーズだけだが、ユダが血を吐くような苦悩と共にこの詞を歌う時に、ああ、この作品は愛の物語なのだ、と悟る。
どれだけ愛しても愛しても、届かない愛。届かない人に向って、それでも愛さずにはいられない、そんな片方向の愛。けれどもそれが無償の、崇高な愛でなくて何だろう。
私は、このユダのほんのワンフレーズの歌があるからこの映画を愛しているのだ。たった数秒のこの歌のために。
ブロードウェイの舞台では、ユダとイエスの、口と口でのキスシーンがあり、それも話題というか、センセーションを呼んだ。
有名な、ユダがイエスをローマ兵に売り渡す場面。ローマ人はイエスの顔を知らない。だからユダがキスをした相手がイエスだからその人を逮捕しろと事前に約束している。その場面でのこと。
当時のユダヤ人は男同士でも口と口でキスをしたと言われているのを聞いたことがある。事実かどうかは知らないが、ジョットの壁画でも、この、ユダの裏切りの場面では口と口でキスしている(パドヴァ、スクロヴェーニの礼拝堂)。
だから、あながち過去に例がなかったわけではない。だけれどもブロードウェイの舞台では、はっきりとユダとイエスの関係をそういう風に描いた。だからこそ強烈な印象を与え、センセーションも招いたのだろう。
映画では良識にのっとってユダはイエスの頬にキスをする。
男同士であれ、男と女であれ、白人であれ黒人であれ、その愛に差はないはず。
愛に苦しみ、愛に泣き、愛に喜び、愛に胸を躍らせる、それはどのような愛であれ無償の美しい行為であるだろう。
よろしい、貴方が飲めと仰るのなら この毒の杯を私は飲もう、
それを貴方が望むのならば
イエスも苦悩していた。愛しても愛しても応えてはくれない神に。けれども彼は決意する、神を愛しぬくことを。
全員が報われない愛に苦しんでいるという、この素晴らしいマゾヒズムこそ、キリスト教の本質であるように、異教徒の私には思えたりする。
この映画が制作された74年はヒッピー時代、ラブ・アンド・ピースの時代。同性愛も愛のひとつとして認められ始めた時代でもある。
この時代ならではのムードの影響が多大にあるのは明らかではあるけれども、謳われているテーマは不変であるだろう。
ノーマルなジュイソンをして、ここまでの映画を撮らしめたのはこの時代の良さかもしれない。
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